iの研究

第八十二回 <ジーさん>の研究


大昔の、わたしが小学生だったころの話です。
母の実家に遊びに行った時、気になるオブジェがありました。
母の実家は農業と魚屋を営んでいて、それは魚屋の奥に飾ってありました。
社(やしろ)の庭に男女の老人が二人、掃除のようなことをしています。
適当な形容が思いつかないのでオブジェと記しましたが、それは木製の神棚のような感じのものです。

老人は二人とも白髪で、長い髭も真っ白です。
この古めかしい像はあまり好きではなかったのですが、なぜか記憶に残りました。
それからしばらくして、七五三の千歳飴の袋に同じ絵柄を見つけました。
こちらはフルカラーです。
この時は、これが宗教的で、しかも縁起物として存在しているぐらいのことは分かりました。

時は過ぎ、2018年の初春の話です。
1月に50数年ぶりとなる中学のクラス会に出席しました。
まァ、誰が誰やらサッパリ分かりません。
談笑しているうちにボチボチと正体が分かってきて、半世紀の時の流れを実感した次第です。
最後に記念撮影をして散会となったのですが、後日その写真がクラス会のHPにアップされました。

見て先ず思ったのは、自分が立派なジーさんになっていたことです。
どこからどう見てもジーさんで、68歳の年齢にふさわしい老人になっていました。
もちろん、今まで気が付かなかったわけではありません。
薄々は自覚がありましたが、見て見ぬふりをしていたのです。
しかしこの写真には目を逸らすことが出来ません。
気のせいか、写真の中のわたしもシッカリ見ろよと言っているようです。

そして思い出したのが、冒頭の木製老人のジーさんとバーさんでした。
知らない間に、わたしは二人の仲間入りしていたのです。
それであれは何だったのかと調べてみると、高砂人形というものでした。
(ものを知らないということは恐ろしいことです。)
尉(じょう=ジーさん)は熊手を持ち、姥(うば=バーさん)は箒を持った長寿と夫婦円満の縁起物でした。
元になっているのは能の「高砂」で、さらにその元は松の伝説でした。

古の寿命で70歳以上は稀でした。
だから古希というのだそうですが、そうすると長寿も70歳が境です。
それを考えると、多分あのジーさんとバーさんは70代でしょう。
わたしはまだ60代ですが、これもあと僅か。
ほとんどお仲間です。
熊手を持ったら、(残念ながら)間違いなく似合うでしょう、



ジーさんは熊手で何を集めていたかと言えば、福(財産)です。
バーさんは箒で邪気を払っています。
わたしはジーさんですから、福(財産)を集めるのが役目ですが、正直やりたくありません。
商売は得意ではないし、これからガンバってもたかが知れているし・・・・。

だけどジーさんだから何かを集めなくてはいけません。
来し方を振り返ると、ロクな生き方をしてきませんでした。
それ故、人に誇るような苦労話は皆無で、ましてや徳を語れるような人間でもありません。
つまり福となるような精神的な財産も自身の中にはなく、それを集めることは不可能です。

さて、困った。
熊手は似合うのに、集めるものがない。
そこでしばらくの思案の末、逆転の発想に辿り着きました。
ロクな生き方をしてこなかった、イコール、福になるようなものを捨てて来た。
その捨ててきたものを拾い集めれば、福になるのです。
身から出た錆を集めれば福が貯まる、ということですね。(←これは違うな)

ともあれ、わたしが生きていく過程で捨て去ったもの、無視したもの、邪険にしたもの。
それらを総点検して、熊手で福を見つけていく。
そうすれば、後の世代の役に立つかもしれません。
一発逆転の人生には到底なりませんが、残り少ないジーさんの生き甲斐ぐらいにはなりそうです。
負の人生もまんざら捨てたものでもありません。
これは、まっとうなジーさんではない、オルタナティヴなジーさんが主人公の「高砂」になるかどうか。
刮目して待て、です。