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iの研究



第六十二回 <音楽>の研究(3)


「BT/美術手帖」という雑誌があります。
現代美術を中心に扱う美術雑誌です。
その雑誌を、先日あるカフェで読んでいたときのことです。

パラパラとページを繰っていたら、見覚えのあるモノが目に飛び込んできました。
相当な量のカセットテープを撮った写真です。
スタジオと思しき所に整然とカセットテープが積み上げられ、それを撮影した写真です。
撮影者は久家靖秀さんという写真家です。
久家靖秀さんのプロフィール、インタビューと作品を特集したページの中に、作品の一点としてその写真がありました。

ちょっと驚きました。
この写真のオリジナルプリントは一度見たことがありますが、まさか雑誌で見ると思いませんでした。
何故驚いたかといえば、その相当な量のカセットテープの制作者はわたしだからです。
そのカセットテープの大部分は、LPやCDをわたしがテープに録音(ダビング)したものだからです。

例の宮崎勤の膨大なビデオテープに比べるとインパクトは遥かに少ないのですが、それでも結構な量です。
わたしの記憶では、1300本前後はあったと思います。
(写真に写っている本数はそれよりも少ないでしょう。置ききれなくなって、途中でかなりの本数を処分しましたから。)
90分テープが主でしたから、アルバムに換算すると悠に2000枚は超えていたと思います。
テープの一本一本にナンバーと手書きのインデックスが付けられていて、それを番号順に記した小さなノートもありました。
それらもわたしの仕業です。

カセットテープの中身は音楽ですが、ジャンルは多岐にわたっています。
洋楽、ロックが中心ですが、ポップス、フォーク、R&B、ソウル、ヒップホップ、レゲエ、カントリー、映画音楽、ワールドミュージック、ジャズ、クラシック、歌謡曲などなど。
ロックも古典からテクノ、アンビエントまで幅広く収録されていました。


掲載されている写真(作品)です。慌てて撮影したので写りが良くありません。


わたしが「BT/美術手帖」を読んだ、あるカフェとは、東京阿佐谷にある「西瓜塘」です。
以前にも書きましたが、わたしと妻はこの店を1979年から1994年の15年間に渡って経営していました。
その後は友人である大町夫妻が経営して今日に至っています。
カフェ(当時は喫茶店)とギャラリーを併設したお店ですが、現代美術の展示が特色といえば特色です。

経営センスのないわたしが15年間も続けられたのは、秀逸な店舗デザインと意欲的な作品を発表してくれた作家の方々、それと我儘でいい加減ななわたしを許容してくださったお客様のお蔭です。
カセットテープは店のBGMとして録り始めたのですが、生来の音楽好きに火がついて、気が付いたら相当な量になっていました。

店を大町夫妻に譲渡したときに、その膨大なカセットテープも店に残しました。
そのときは既に店の一部でもあったからです。
それがつい最近、「西瓜塘」で数多くの展覧会をしている久家さんの手に渡ったことは大町夫妻から聞いていました。
そのときに、久家さんが撮影したオリジナルプリントも見せていただきました。

プロの写真家の手になるカセットテープの山は、不思議な存在感と美しさがありました。
写っているのは音楽の容器でしかないカセットテープですが、そこにはあたかも多種多様な音楽が在るかのようです。
カセットケースの背表紙に手書きされたタイトルとミュージシャン名。
わたしが書いたヘタクソな文字がズラリと並んでいるのは、懐かしいと同時に恥ずかしさも覚えました。

何故久家さんはカセットテープを写真に撮ったのでしょうか。
わたしが想像するには、それらが1980年代の一つの記録になっていたからではないかと思います。
メインストリームからちょっと外れた1980年代の音楽の記録。
久家さんはそれをテープの山に見たからではないかと思います。



もちろん、わたしはそういった記録の為に録音したのではないのですが、結果的にそうなったのかもしれません。
この記録を実際に制作したのはわたしですが、その内実は多くの人が関わっています。
まず元になった音源、つまりLPやCDですが、その多くはわたしが所有していたものではありません。
わたしが持っていたのは極くわずかです。
多くは友人、従業員、お客様の所有、そしてレンタルレコード店や図書館から借りたものです。
(テープになったものを戴いたことも少なくありません。)

店内でBGMとして音楽を流す。
アルバイトの多くは音楽好きでしたから、自分のコレクションを持ってくる。
お客様や友人も自分の聴きたいものや好きなものを貸してくれる。
レコード会社に勤務していたり、仕事で音楽業界と繋がっているお客様もいました。
有名、無名のミュージシャンもお客様でした。
そういった方々の協力もあってテープは徐々に増えていきました。

わたし自身も面白い音楽を求めて方々をうろつきました。
隣駅の高円寺にその当時あったレンタルレコード店にはニューウェーブ(!)やオルタナティヴなレコードが豊富に揃っていて、よく利用させていただきました。

そんなわけで、膨大なカセットテープの道筋をつけたのはわたしですが、その内実は「西瓜塘」という店を中心とした音楽の共有といっていいかもしれません。
時代に感応しながら、多くの人が持ち寄った音楽の集積、それがあのカセットテープの山です。

今発売されているデジタルミュージックプレーヤーiPadは一台に最大7500曲が入るそうです。
単純に計算すると、あのカセットテープの山は数台のiPadに置き換えられます。
そう思うと、あの圧倒的な物量がよけいにレガシーな風景に見えてきます。
レガシーとは遺産、遺物といった意味ですが、1980年代の風景は既に充分にレガシーなのかもしれません。

久家さんの写真が面白いのは、被写体がLPやCDではなくてカセットテープであることです。
記録(レコード)されたものを再度記録したモノの物質としての量と、録られた時代が同時に表現されています。
(手書きのインデックスと、カセットテープの記録媒体としてのレガシーさです。)
あたかも写真館で撮影された家族写真のように、真正面から写されているカセットテープの山。
ミニマルな物質の写真で、しかも過去の何かを写した写真。
その何かとは、制作者のわたし個人の手から離れた、一つの小さな歴史のようなものです。
東京の小さな街の小さな店で、共有された音楽の小さな歴史のようなものです。

最初にプライベートなオリジナルプリントを見たとき、正直にいえば幾分感傷的な気分になりました。
昔の自分が写っている写真を見たときのような感じ、です。
それが作品として掲載された、「BT/美術手帖」で見たときはちょっと違いました。
自分自身から離れた、ある時代のシーンがそこに写っていると思ったのです。
(シーンは当時流行った言葉です。「東京の音楽シーン」といった具合に。)

「音楽は誰のものか」、という問いがあります。
音楽の作者や演奏者のものかもしれませんし、その権利を買った音楽出版社のものかもしれません。
しかし、久家さんの写真を見ていると、「音楽は誰のものでもない」という気がしてきます。
特定の個人や団体から離れて街に拡がった音楽は、人々の間を流れ、時間の経過とともに次世代の音楽の種子となります。
いってみれば音楽は一つの運動のようなもので、受け継がれていく生命体のようなものです。
わたしには久家さんの写真が、その断面を切り取ったのものに見えます。



さて、前回の続きです。
今回も、リチャード・ストールマンの「フリーソフトウェアと自由な社会」を教科書に話を進めます。

著作権法の目的は「科学、文化の進歩、発展」であり、その主体は国民にあります。
国民の自然権(もともと持っていた権利)を一定期間著作者に預けて、著作活動の活性化を促し、その果実を国民が受取る。
これが基本的な考え方です。

著作権表示を英語で記すとCOPYRIGHTになります。
直訳すれば、コピーする権利ですね。
コピーの独占権、それが著作権の内容です。
この権利は著作者に与えられるものですが、現実には出版社(レコード会社等も含む広い意味です)が保有しているケースの方が多いようです。
(出版、音楽業界には詳しくありませんが、出版、リリースの条件として譲渡されているようです。)

二十世紀も終ろうとする1998年にアメリカで、デジタルミレニアム著作権法が成立しました。
この法律には多くの問題点がありますが、とりわけ著作権の延長が大きな議論になりました。
結局20年の延長ということになりましたが、その後押しを強力に推進したのがディズニーです。
巨額の利益を生んでいたミッキーマウスの著作権失効を恐れ、政治献金とロビー活動という力で法案を成立させました。

著作権は一定期間預けた権利です。
この根本を変えるのは大変ですから(憲法の改正になりますから)、著作権者は簡便な方法で永遠に権利を保有しようとしています。
20年ごとに溯及的に20年づつ延長するのです。
「分割払い式永久著作権」と呼ばれる方法です。

何やら、払っても払っても借金が減らない悪徳サラ金の仕組みを思い出させますが、その背景にあるのは著作権ビジネスです。
権利を売買して利益を得る、このやり方ほど著作権法の精神に外れるものはありません。
その一方では著作権の啓蒙活動(プロパガンダ)が盛んに行われています。
「知的財産権(知的所有権)」という言葉を御存じかと思います。
この言葉は著作権、特許権、商標権などを包括した言葉ですが、実際にはこれらの権利は法的に全く別のものです。
法的にはなんら共通点のない権利なのです。

一種のイメージ操作ですね。
実際はバラバラに存在する権利を強引に合わせて、あたかも不可侵な権利の一群「知的財産権(知的所有権)」があるように見せかけます。
それを、特に後進国を呼ばれる地域でデモンストレーションしています。
例えば、中国で海賊テープをブルドーザーで踏みつぶすようなデモです。
このデモの主意は海賊業者への見せしめですが、中国国民への啓蒙も大きな動機になっています。
「知的財産権(知的所有権)」の啓蒙ですね。
無知な国民を啓蒙しようというわけです。

しかしよく考えてみるとこんなバカな話はありません。
アメリカが啓蒙している国々は、著作権法がなくても著作者を敬い、著作物を広く国民が共有、享受してきた歴史を持つ国々です。
つまり文化が何であるかは熟知している国々なのです。
前回に書いた映画の話を思い出して下さい。
映画のストーリーを決めるのは監督ではなくて弁護士、というアメリカの話です。
そういう国こそ、知的後進国というのではないのでしょうか。
(もちろんそれはアメリカ国民のことではなくて、国のシステム、指導層のことです。)

この啓蒙は「近代」が歴史上最も優れているという幻想のなせる業で、法(契約)を最上に置いてしまった国民国家という擬制の共同体の悲劇かもしれません。
訴訟を生業とする弁護士が有り余るほどいて、その弁護士が富裕層の一角を占めている。
争いが絶えず、その仲介者が金持ち。
自分の作ったもので自分の首を締めているようなものです。

話がちょっとずれましたが、一定期間という約束を反故にするような法律が成立し、著作権の拡大解釈が行われていることは、著作権の主体である国民にとってはバッドなニュースです。



訴訟といえば、違法ファイル共有で訴えられたNapsterの裁判はまだ決着がついていないようです。
負け続けていたNapsterが初めて勝って、俄然今後の行方が分らなくなりました。
Napsterの利用は音楽ファイルの共有(交換)だけではなかったのですが、CDの売上減少に危機感も持った音楽業界の圧力でNapsterは閉鎖に追い込まれました。

確かにNapsterも売上減少の原因の一つかもしれませんが、前回書いたように真の原因は他にあるような気がします。
又、逆にNapsterをCD購入の販促的媒体として音楽業界が捉えていたら、事態は違ったかもしれません。
冒頭のわたしが制作したカセットテープも私的複製の範囲を超えていたと思います。
「西瓜等」は現代美術が中心でしたが、それを含めて情報基地という役割を持っていました。
音楽はBGMでしたが、結果的には音楽も発信された情報の一部でした。
その音楽を聴いてLPやCDを購入した人は数多くいました。
ファイル共有をその損失だけに焦点を合わせず、試聴の機会と考えてその方法に知恵を絞るのも有益だと思います。
(FMラジオの果たしている役割と同じように。)

ストールマンはNapsterのファイル共有に興味深い事実を見ています。
それは、一般人のコピーする自由の行使です。
著作権法の誕生した時代、印刷機の普及で写本は実用を失っていましたから、著作をコピーするには印刷設備が必要でした。
印刷機は高価で、その設備投資には莫大な費用がかかりました。
そこで一般人はコピーする権利を一定期間著作権者に売り渡しました。
(権利を持っていても役に立たないわけですから、賢い選択といえますね。)
売渡した見返りが、著作の活性化であり、科学、文化の進歩です。

時代は変わりました。
今や印刷機がなくても一般人はコピーすることができます。
コンピュータとデジタル技術の進歩、普及によって、誰でもコピーが可能な時代になったのです。
文字も画像も音楽も、デジタルに変換できれるものであれば、どんなものでもコピーできます。
しかも、デジタルは全く同一にコピーできます。

今貴方が読んでいるこのページ。
カラーの文字と画像で構成されているこのページ。
一昔前なら、印刷機がなければ配布できませんでした。
今なら簡単です。
読むだけならWebサーバーにアクセスしてダウンロード、つまりインターネットに接続してブラウザを立ち上げ、このサイトにアクセスするだけです。
プリンタを起動してデータを送ればにプリントもできます。
ハードディスクに保存したければ、ブラウザのメニューの「ページの保存」を選択するだけ。
これでネットに接続しなくても、好きなときに読んだりプリントもできます。

わたしはページを一部作成してそれをサーバーに送信(コピー)すれば、後は勝手に閲覧者がコピーして読んでくれます。
一台のコンピュータとネットワークで出版業と同じことができる時代なのです。
音楽だって同じですね。
ミュージシャンは楽曲のファイルをサイトに置いておけば、リスナーが勝手にダウンロード(コピー)してそれを聴く。
出版業者やレコード会社でなくても、一般人がコピーを簡単にできる時代になったのです。

そういう時代になったのですから、当然著作権法も時代に合わせて変わらなければなりません。
もう国民(一般人)は長期にわたって自己の権利を預ける必要はありません。
返してもらいたいのですが、一方で著作活動の活性化も必要です。

そこで、ストールマンは著作の内容と用途に応じた著作権の設定を提案しています。
用途は「機能的な作品」、「思想的な作品」、「美的、あるいは娯楽的な作品」に分けられ、それぞれの権利の設定について詳しく論じています。
「機能的な作品」は、仕事に使われる作品です。
ソフトウェアがそれの代表です。

ストールマンは「機能的な作品」の例として料理のレシピを取り上げています。
友人から教えてもらったレシピを、自分の好みや状況に応じて変更する。
それを又他の友人に教える。
ずっと昔から当たり前に行われてきたことです。
ソフトウェアもレシピと同じように、使いやすいように変えたり、人の手を経ることによって進歩すべきものです。
「機能的作品」は内容(ソースコード)を公表して変更の自由を与えるべき、それがストールマンの主張です。

音楽は「美的、あるいは娯楽的な作品」に分類されます。
ここでストールマンは、この作品群のデリケートさに言及しながら、現行の著作権制度を営利目的に関しては限界的に認め、来るべきネットワーク時代の音楽の配信に言及しています。

作品を見たり読んだり聴いたりしている画面の横に、「これをクリックして、作者に1ドル送ろう」というボックスが表れます。
邪魔にならない大きさ、場所にです。
気に入ったらクリックして1ドル送ります。
(前提として、完成されたデジタル為替システムが必要になります。)
友達にコピーを電子メールで送れば、その友達も1ドル送るかもしれません。
その額は作者がCDの売上から得る金額よりも多くなるだろう、とストールマンは予測します。

このアイデアは単なる一つの方法です。
いわゆる産地直送方法ですが、間に配信業者を介してもいろいろなアイデアがあると思います。
ストールマンがこのアイデアを提起した背景には、わたし達の想像とは違って、CDの売上から音楽家が手にする額が驚くほど少ない現状があります。
売上から宣伝費の名目で相当額が差し引かれ、その残りの僅かな金額が音楽家の取分になります。
CD発売に合わせたプロモーション、ツアーはすべて宣伝費として音楽家の負担になり、前借りのような形で売上から差し引かれます。

ローレンス・レッシング「コモンズ」で読んだと記憶していますが、ミリオンの枚数を売上げるロックミュージシャンの実情と嘆きが掲載されていました。
いわく、「セブンイレブンの店員の方が俺達より収入が多い」。
売上から宣伝費を引かれると、そのような金額になるということなんですね。
現状はわたし達の想像とはかけ離れ、一握りの億万長者とその他大勢のコンビニ店員以下になっているようです。
ラスベガスのギャンブルと同じですね。
(映画や楽曲のカヴァーにプレスリーの「ビバ・ラスベガス」が多用されるのは、それの反語的な効果を狙ったものでしょうか。)



しかし、著作権を巡る昨今の流れは、一般人がコピーの自由を行使できる時代とは逆に進んでいます。
著作権の保有期間の長期化です。
日本でも最近映画の著作権が50年から70年に延長されました。
映画の場合、著作権保有者(映画会社)が公開する意志のない作品は実質的に死蔵と同じです。
もうすぐ著作権が切れると期待された作品は、これから20年間又倉庫で眠り続けるしかありません。

もう一つの重要な流れは、DRM(デジタル著作権管理)の普及です。
DRMとは、デジタルデータに複製の制限をかけたり、記憶媒体、プレーヤーなどにコンテンツの流通や再生に制限をかける技術です。
これが全般に適用されると、今までのCDや本を貸し借りするような行為が難しくなります。
コンテンツの利用は購入者に限られ、譲渡不可か、複雑な認証を要することになります。
もしそのプロテクトを外せば、犯罪者として罰せられます。

もし貴方がWindows XPのユーザーなら、この話にピンとくると思います。
Windows XPをインストールすると、起動するたびに認証を求める警告が表れます。
30日以内にインターネットか電話でマイクロソフトに認証を受けないと、XPが使用できなくなるという警告です。
無視すれば、警告通り31日目にはXPにログインできなくなります。
認証を受けるとXPを使用できますが、認証されたコンピュータ以外にインストールしても30日しか使えません。

これと同じことが購入した音楽ファイルにも適用されています。
ファイルをコピーする機器、メディアと回数が厳密に制限され、譲渡は不可能かインターネットに接続して認証を受けなければなりません。
本はハードの技術的な問題からデジタル化が進んでいませんが、将来的には音楽ファイルと同じようになると思います。
そうなったとき、貴方が極く普通にしていた本の貸し借りは出来なくなります。

すべてのデジタル著作物が管理され、管理を権利の防衛とする著作権者の正義が実現した世界。
その世界を想像してみて下さい。
そこに果たして科学、文化の進歩、発展があるでしょうか。

音楽は文化です。
文化は共有されることがその前提条件です。
一人の男が歌った歌は、聴く人がいなければそれは唯の独り言です。
口承、伝承によって共有された文化は、複製技術の発展で著作権を生みました。
本来著作権とは、知恵であったはずです。
複製装置を持たない一般人が、複製する権利を一時的に著作者に預けて利息を付けて返してもらう。
そういう知恵であったはずです。

ここに二つのOS(オペレーティングシステム)があります。
一つはWindows、一つはGNU/Linuxです。

ユーザーがWindowsを使いやすく改良しようとしたり、友人に配布することはできません。
契約で禁じられているからです。
(もしXPの認証システムを外したら、犯罪者として罰せられます。)

ユーザーがGNU/Linuxを使いやすく改良したり、友人に配布することは奨励されています。
もし改良、改変したら、その内容(ソース)を公表しなけばなりません。
それを私有化することはできません。
GNU/LinuxのGPL(著作権ライセンス)に違反するからです。
これも契約で禁止されています。

WindowsもGNU/Linuxも著作権を有するOSです。
どちらが著作権の趣旨に相応しいでしょうか。
どちらの歌がわたし達の心に響くでしょうか。


今回で<音楽>の研究は一応終りです。
著作権という、いささか狭い視点から見た音楽の研究でした。
次回に音楽を研究するときは、音楽の内側から考察してみたいと思っています。
又、DRMのような管理技術はデジタル著作権を超えた重大な問題を孕んでいる気がします。
(それは政治的な領域はもとより、心的な領域に予想もしない脅威を与えるでしょう。)
これもキーワードが見つかったときに改めて研究する予定です。

<第六十二回終わり>







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