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iの研究



第六十回 <音楽>の研究(1)


わたしが最初に購入した音楽は、半透明の赤い色をしていました。
ルビーのような色でしたが、それは本物の色ではなく、安っぽい人工ルビーのようでした。
それでもわたしが生れて始めて購入した音楽ですから、その色は今でもハッキリ憶えています。
その楽曲は、「ウエスト・サイド・ストーリー」。

本当は本物のルビーが欲しかったのですが、わたしにはお金が有りませんでした。
わたしは中学生でした。
半透明の赤い色をレコードプレーヤーの上にのせ、そっと針を落とすと特徴的な雑音が聞え、それから音楽が始まりました。
それは紛れもない「ウエスト・サイド・ストーリー」でしたが、わたしが聴きたかったのは映画のサントラでした。
ターンテーブルの上で回っているのは、聞いたこともないロンドン・キャスト版。
映画の感動とは微妙に違うものの、わたしは好きなときに好きな音楽を聴ける喜びに浸りました。

わたしが買ったのは、ソノシートの「ウエスト・サイド・ストーリー」でした。
ソノシートは薄い塩化ビニール製の廉価な記録媒体です。
(一時のCD-ROMと同じように、マルチメディアとして持て囃された時期がありました。正確にいえば、雑誌やブックレットとの複合でマルチメディアでした。)
赤、青、黄といろいろな色のソノシートがありました。
当時LPレコードが1500円前後、ソノシートは数百円で買えました。

ともあれ、わたしは人工ルービーであっても宝石を手に入たことになります。
好きなときに好きな音楽を聴く自由です。
数枚のソノシートを購入した後、その粗悪な音質と二流の歌手の音楽に飽きて、わたしはレコード盤を買うようになりました。
17cmのシングル盤です。
中央に丸い大きな穴が空いた盤が多かったことから、ドーナツ盤とも呼ばれました。

本物のルビーです。
オリジナルの歌手による、本物の演奏でした。
わたしは音楽を所有した気持ちになりました。
好きなときに好きな音楽を聴ける、それは音楽を所有したのと同じです。

それが、ある意味で錯覚であることに気が付いたのは遥か後でした。
音楽には著作権があって、わたしが所有していたのはたかだか使用権とでも名付けられるものにすぎませんでした。

音楽には所有者がいます。
著作権者です。
CD(レコード)を購入したわたし達は、私的な複製はできますが、それ以外のことはできません。
著作権法で禁じられているからです。

もっともコピーが問題になってきたのは、デジタル機器が普及したつい最近のことです。
一昔前は、レコードをカセットテープにダビングして、友人に渡したりすることはごく普通に行われていました。
その当時でも違法でしたが、目くじらをたてて騒ぎ立てることはありませんでした。

FM放送でアルバムを丸ごとオンエアし、それをテープデッキでエアチェックする音楽ファンも多数いました。
これは合法で、FM雑誌の番組表にはアルバムの曲目、演奏時間等の詳細な情報が載っていました。
レコード会社公認、あるいはセールスプロモーションの一環としてオンエアされていました。
今考えれば、長閑(のどか)な時代だったといえます。

さて、音楽は誰のものでしょうか。
音楽の真の所有者とは誰なのでしょうか。
今回は、この「根本的な疑問」を考察してみます。



前々回の<iPhoto>でAppleのMusic Storeについて書きました。
音楽のインターネット配信における、「現実的な解決」として取り上げてみました。
現実的な解決という語句をわざわざカギカッコで括ったのは、それが優れたシステムであっても、音楽の所有に関する根本的な問題には深入りしていないからです。
「ユーザーは泥棒ではない」とはAppleのCEOジョブズの言で、わたしもその通りだと思います。
しかし彼の発言はそこまでで、それ以外は画期的なビジネス手法に集中しています。

わたしはコンピュータや、iPodのようなポータブルデジタル機器で音楽を聴く習慣がないので、日本国内でMusic Storeのサービスが始まっても楽曲を購入しないと思います。
でも、もしわたしにそういう習慣があれば恐らく購入するでしょう。
それだけMusic Storeはユーザーにとっては魅力的なサービスといえます。

AppleのMusic Storeが誕生した下地には違法コピー問題があります。
違法コピーを大きく二つに分けると、ファイル共有を利用したものとCD-Rを利用したものになります。
ファイル共有は、P2P(ピアツウピア)というサーバーを介さないクライアント同士のファイル交換技術を利用しています。
簡単にいえば、個人のパソコン内のデータをインターネットを通じて相互に遣り取りする仕組みです。
CD-Rが問題にされているのは、それを使用して音楽CDの複製(コピー)が容易にできるからです。
日本では後者のCD-Rを使ったコピーの方がより問題となっています。
まずこちらの方から先に考えてみます。

わたしは周辺機器を増やさない主義なので、つい最近まではCD-R/RWドライブとは無縁でした。
(そのかわり本体とOSを増やす主義ではなくて、いつの間にか増えてしまいました。)
やっと手に入れたCD-R/RWドライブですが、バンドルされていたライティングソフトのオンラインマニュアルが壊れていたので、扱いが良く分かりません。
市販参考書を買ってきて、まず手持ちの音楽CDをコピーしてみました。

簡単ですね!
実に簡単に、音楽CDが丸ごとコピーできてしまう。
このドライブが目の前にあって、その横に友人から借りたCDがあったとしましょう。
しかも以前買ったCD-Rメディアがまだ数枚残っている。

よほどの遵法精神の持ち主でないかぎり、直ちに(あるいは躊躇の後)CDをコピーしてしまうでしょう。
普通の人間なら、違法と分かっていてもそうすると思います。
CD-R/RWドライブはCDのコピーだけではなく、データのバックアップも主な用途です。
画像ファイルやドキュメントを人に渡すときには重宝します。
プラットフォーム(OS)を問わず読込めるからです。

そういう(簡単にCDをコピーできる)機械なんですね、CD-R/RWドライブは。
それを売りつけておいて、違法コピーと騒いでユーザーを悪者にする。
ちょっと筋が違う気がします。
しかも主立ったパソコンメーカーとレコード会社は資本的に密接な関係にある。
例えば、ソニーとSME(ソニー・ミュージック・エンターテイメント)。

一方でCDを販売し、一方でそれをコピーできるマシンを売っている。
悪いのはユーザー。
やはり、おかしいですね。

もちろんパソコンメーカーには言い逃れがあって、私的利用に限るという断わりがあります。
では、その私的利用の範囲はどこからどこまででしょうか。

CD-R/RWドライブを購入した音楽ファンが誰でも考えるのは、友人のCDのコピー、レンタルCDのコピーです。
それと私的なベスト盤や用途に応じたオリジナルCDの制作ですね。
例えば、ドライブ用とか。
友人のCDのコピー、これは違法です。
では、レンタルCDは。

調べてみるとこれが意外に複雑で、合法と違法があります。
音楽用CD-Rにコピーした場合は、合法。
データ用CD-Rは違法です。
まずレンタル料金には、借りた人がテープやメディアにコピーできる補償金のようなものが含まれています。
音楽用CD-Rにも同様の料金が含まれています。
しかも音楽用は一回限りの書き込みしか出来ませんから、私的利用にあたるというわけです。
(データ用CD-Rは補償金なしですし、理論的には無限にコピーが可能です。)
なるほど・・・・。

しかしながら、レコード会社の見解はマチマチで全部まとめて違法と決めつけている会社もあります。
「レンタルCDからのコピーの所為でCDの売上が落ちている・・・・」、と。
音楽用CD-Rへのコピーは合法なんですけどね。



ファイル共有による違法コピーにも手を焼いたレコード会社は、CCCD(コピーコントロールCD)なるコピーガード付きのCDを発売しました。
このCDは一応CDと名乗っていますが、CDではありません。
CDにはレッドブックという規格があって、それを満たしていないものはCDではありません。
CCCDはレッドブックから外れた記録媒体なのです。

これがエイベックスから発売されたとき、目を疑ったのは「Macでは再生できない」という一文です。
う〜ん、悔しいですね。
残りの数パーセントのユーザーは相手にしていない、というわけです。
それに対して別にお詫びもありませんでしたし、ただ単にMacには未対応という文字だけでした。

このCCCDがMacユーザーに不評だったのは至極当然として、多くの音楽ファンの怒りも買いました。
CCCDの中身は通常の音楽ファイルと圧縮されたファイルの二つで構成されています。
パソコンにインサートすると、まず圧縮ファイルを再生する独自ソフトが勝手にHDにインストールされます。
何の断わりもなく、インストールされるそうです。
そして、そのソフトで再生される圧縮ファイルは情けないほどの低音質。
CDプレーヤーで再生しても、コピーガードのファイルが干渉して従来よりグレードの低い音質になるそうです。
(実際に聴いたわけではなく、Web上の多くの記事の参照です。)

背に腹は代えられないとしても、もっとスマートなやり方がなかったのでしょうか。
パソコンで音楽を聴くファンは確実に増えていますし、こういうやり方は逆効果ではないでしょうか。

わたしがCCCDに関して最も興味を持ったのは、エイベックが新聞に出稿した(意見広告のような)広告です。
私的利用(複製)について、それはユーザーの権利ではなくて、著作権者による許諾であるという一文です。
著作権者のお許しでユーザーは私的利用ができるという意です。

考え違いだと思います。
このことは後で詳しく書きますが、著作権に対する大きな考え違いです。

結論から書いてしまえば、著作権は国民(法を構成する要員)が著作者に期間を限定して預けた自由です。
何故預けたかといえば、著作者に特別の権利を与えて文化を振興させるためです。
権利という報償を与えて著作に励んでもらうためです。
期間が過ぎたら、それは国民に返還され、国民が共有するものです。
著作による果実は構成員全員の共有であり、そもそも著作自体が過去のそういった果実から発生するものです。
無から果実が成るのではないのです。

特権の享受は著作者の汗の結晶から生れてくる、と思うと考え違いをしてしまいます。
汗の結晶であることは間違いないのですが、著作権の発生の前提を良く考えてみる必要があります。
過去の歴史の総体、つまり誰のものともいえない共有された文化があって始めて著作は生みだされるのです。
又、著作権の歴史的成立(アメリカ憲法)を見てみると、著作権法は著作者に対する出版社の権利の制限に起源を発しています。
著作権法とは出版社の権利を制限して著作者を守るためにできたのです。
決して国民の権利を制限するためにできたものではないのです。

ですから、エイベックスは大きな考え違いをしているのです。
著作の主人は国民(ユーザー)であり、制限を受けるのは貴方(レコード会社)なんです。
それが基本的な考え方なのです。

いつになく硬調な文章になってしまいましたね。
でも、この一文を読んだときは正直言って腹が立ちました。
ここでカウンターパンチとして、特殊ではありますが、際立った例を一つ。



アメリカの西海岸にグレートフルデッドというロックバンドがあります。
1960年代末から活動しているサンフランシスコを代表するバンドです。
リーダーだったジェリー・ガルシアはすでに故人ですが、今でもバンドは存続しています。

デッドのコンサート会場には特別なブースが設けられています。
観客はそこにテープデッキを置いて、自由にデッドの演奏を録音できるようになっています。
デッドのコンサートでは、陰でコソコソ録音する必要はありません。
デッドが奨励しているのですから、堂々とそのブースにデッキを置いて、良質な録音テープを持ち帰ればよいのです。

ブートレグ(海賊盤)が横行していた時代の最中でも、このサービスは続けられました。
それでデッドのレコード売上が落ちたという話は聞いたことがありません。
プライベートなデッドのライブテープを持っているファンも、デッドのオフィシャルライブアルバムを買ったのです。

デッドの考え方は、恐らく以下のようなものです。
デッドの演奏する音楽はデッドのものであるけれども、デッドだけで作ったものではない。
それは過去のいろいろな音楽の影響下にあります。
もっと広い意味で言えば、文化の総体がデッドの音楽を作りだしたとも言えます。
音楽の構成要素をシンプルにすれば、作詞、作曲、演奏になりますが、観客がいなければ音楽は成立しません。
そして、観客の支持によってその音楽は聴き続けられます。
支持されない音楽は消えてなくなります。
残ったもの、聴き続けられたもの、それが文化となって次代に引き継がれます。
だから同時代の観客も音楽のクリエーターであり、文化の重要な担い手なのです。
(同時代人としての観客の生き方、考え方、および演奏へのリアクションもデッドの音楽に関与しています。)

そのような考え方に立てば、デッドの音楽をデッドが独占するのはおかしな話になります。
協同で音楽を作っているのですから、それは共有しなければならないのです。
現行の音楽システムはレコードの販売、コンサートが中心になっています。
そのシステムの中で、コンサートでの自由な録音という権利をデッドは観客にプレゼントしました。
それは許可ではなくて、権利だと思います。
音楽を共に作る観客の権利として、自由に録音させたのだと思います。

何時頃からだったでしょうか。
コンサート会場の入口で手荷物検査が行われるようになったのは。
係員がカバンの中にテープデッキ、カメラ、ビデオカメラが入っていないか調べます。
犯罪者のように扱われて、観客は会場に入ります。

一部の不心得者の所為という名目で、観客やユーザーが不便で不快な思いを強いられ、自己の損失を観客やユーザーに押し付ける。
肖像権(パブリシティ権)などという架空の営業権利をでっち上げて、スターやミュージシャンの写真を撮らせない、Webに掲載させない。
どれもこれも、おかしな話です。

「お客様は神様です」とは三波春夫の名言ですが、この意味をもう一度考えてみて下さい。
自分のレコードを買ってくれるから、コンサートに来てくれるから、だからお客様=神様ではないのです。
自分が歌を歌えるという根底にお客様がいて、しかもその歌を支持してくれるから神様なのです。
お客様とは、過去から綿々と続く文化の具現化であり、広い、広い世間なのです。
わたしは、そう解釈します。


怒りのテンションが高かった今回の研究でしたが、<音楽の研究>は続きます。
次回はユッタリと行く予定です。
「フリーソフトウェアと自由な社会」リチャード・ストールマンと「コモンズ」ローレンス・レッシングの著作を参照しながら、著作権やファイル共有についてもう少し考察してみたいと思います。
(今回の研究でも両著には多大な示唆をいただきました。)
自分なりに理解したことを、もっと分かりやすく書けたらと思っています。

リチャード・ストールマンはフリーソフトウェア運動の先駆者で、ちょっと過激な理想家です。
でも、今の時代に理想家というのは貴重な存在ではないでしょうか。
現実主義の蔓延に息がつまりそうなとき、この人の本を読むとホッとします。
理想主義者の心の広さに救われるのです。


<第六十回終わり>

<音楽>の研究(2)に続く






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