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iの研究


第四十二回 <世界>の研究(3)


「♪ 神様に会いたい・・・・」。
と、囁くように唄っているのは、森万里子。

森万里子は現代美術作家です。
「森万里子 ピュアランド」展が東京都現代美術館で開催中(2002年1月19日〜3月24日)です。
(森万里子、ご存じない方も多いと思います。簡単な紹介は
ここをお読み下さい。)
出品作の一つ「ニルヴァーナ」は3Dのビデオインスタレーションで、その映像の中で森万里子は天女です。
森万里子は、バックに流れる音楽で囁くように唄っています。
「♪ 神様に会いたい・・・・」。

・・・・の部分はJ-POPによくある英語のリフレインですが、残念ながら失念いたしました。
「ニルヴァーナ」は、東京ディズニーランドで上映されていた「キャプテンEO」と同じ原理の3Dです。
透明なレンズの3D眼鏡をかけて鑑賞する、アレです。

東京ディズニーランドといえば、「森万里子 ピュアランド」展はテーマパークに例えられるかもしれません。
表現手法が多彩で、観るというよりは作品の中に入る感覚が強い展覧会です。
現代美術の堅苦しさ、重さがない展覧会ともいえます。

さて、今回は「神様」について考察してみたいと思います。
わたしもお会いする機会があったら、是非お会いしたい「神様」の研究です。
二回にわけて、今回は「ピュアランド」展、次回は「吹矢と精霊」(口蔵幸雄著)をテキストに考察してみます。

ピュアランドの邦訳はなんだと思いますか。
これがですねぇ、浄土なんですよ、浄土!
この展覧会のメインの作品はドリームテンプル。
これの邦訳は、夢殿。
法隆寺の夢殿です。

こういうセンスには正直言って負けますね。
のっけから森万里子の勝ちです。
ピュアランドが浄土。
なるほどねぇ、確かにその通りだし、今となっては英語の方が分かり易いかもしれません。
聖徳太子の夢殿だって、ドリームテンプルの方が実感があります。
歴史の教科書よりJ-POPの歌詞の方がリアリティがあるのが、良〜くわかりました。

リアリティ、これが森万里子の作品の核心です。
今のわたし達にとってリアリティのあるものとは何か。
それは、安ぽっくてキッチュなヴァーチャルリアリティです。
ハイテクと伝統のハイブリッドと形容されている「ピュアランド」展ですが、中身はチープでキッチュな現実のシュミレートです。
(これは、誉め言葉です。)

ハイテク、これは高度な技術のことです。
ハイテク=高価だった時代は去って、安価なハイテクが身の回りにあふれています。
ハイテクの物神性がくずれ、日常まで降りてきたハイテクは概ねチープでキッチュです。
携帯電話、ゲーム機、DVDプレーヤー、etc.。

デジタルがわたし達の生活に入ってきたのはCDプレーヤーが最初だった思います。
当時のCDプレーヤーは数十万円もした高価な機器で、天上から降り立ったばかりの神々しさがありました。
今やCDラジカセは数千円で買えます。
CD特有のシャリシャリした音を響かせながら、外観はその音に似合ったチープな装いです。

森万里子の作品が、そうそうたるスタッフと多大な資金を費やしたハイテクによって制作されているのもかかわらず、チープでキッチュなのは、私たちの日常が持つチープでキッチュなリアリティと同質だからです。
ハイテクによるヴァーチャルリアリティは、既に私たちの生活の中では中心的なリアリティです。
わたし達の生活はデジタルに変換された情報なしでは成り立たなくなっているからです。

そして少なくとも、現時点ではバーチャルリアリティはチープでキッチュなものなのです。
あるいは、ヴァーチャルリアリティは基本的にチープでキッチュなものかもしれません。
観光地のリアリティをヴァーチャル化したお土産物がそうであるように。

森万里子の作品にリアリティがあるのは、そういった日常的リアリティから出発してそこから外れていないからです。
だから、ものすごく分かり易い。
現代美術特有の自己言及もなければ、晦渋さもない。
テーマパークのリアリティは、日常と親和性をもった非日常にあります。
この展覧会のポジションはそれと同じところにあります。



「森万里子 ピュアランド」展は制作年度を基準に三つのパートに別れています。
パート1は<EMPTY DREAM>。
森万里子が近未来的なファッションに身を纏い、各所で撮影された大型カラープリント作品です。
アニメ、漫画系のキャラクターに扮した彼女が、電車の車内やオフィス街、ゲームセンター、ゲームソフトショップの店頭に登場します。

これは、コスプレですね。
コスプレは、漫画やアニメのヒーロー、ヒロインに扮することです。
実は十年ほど前にコスプレを見たことがあります。
幕張メッセで催された、コスプレ発祥の地であるコミケ(コミックマーケット)の会場で。

このときの会場は凄かったですね。
あの広いメッセが、人、人、人で、会場のソフトドリンク自販機はすべて売り切れ状態。
帰りに海浜幕張駅で切符を買うのにも長蛇の列。
漫画、アニメのマニアの多さに認識を新たにしました。

いわゆるオタクの数が半端でないこと、そのマーケットが膨大なものであることに気づかされました。
試しに、インターネットで「コスプレ」を検索してみて下さい。
莫大なヒット数にビックリすると思います。
コスプレは日陰の趣味、文化ですが、インターネットは日陰の趣味、文化の百花繚乱状態です。
日常では日陰の趣味、文化がここでは活き活きと交流している様子がわかります。
だから、インターネットは健全なのであり、面白いんですよね。

いくつかのコスプレ系Webサイトを見てみると、コスプレをする人のことをレイヤーとよんでいます。
コスプレイヤーの略ですね。
(レイヤーというから、ついPhotoshopのレイヤーか、ヘヤスタイルのレイヤーだと思っていました。)

森万里子は、多分レイヤーです。
コスプレ愛好者です。
森村泰昌やシンディー・シャーマンもレイヤーですが、こちらは美術オタク系です。
(森村もシャーマンも表現方法としてコスプレを使っていますが、基本的にコスプレ自体が好きなんだと思います。)
森万里子は正統派のアニメ、漫画系のレイヤーです。

パート1は、現実に対する批評性の強い作品が主になっています。
代表的なのが「ティー・セレモニー。」。
ビジネス街でOLの制服を着た森万里子が、歩いているサラリーマンにお茶を差し出すシチュエーションのカラープリント作品です。
OL=お茶くみを皮肉った作品です。
しかし制服の下は、しっかり近未来のコスプレでキメています。

「はかない夢の中で」は、宮崎の屋内海水浴場で海水浴客に混じって人魚に扮した森万里子が浜辺で寝そべっています。
屋内海水浴場!
実態は大きな屋内プールですが、人工の砂浜と周りに海の景色が設えてあります。
これは、安手でアナログなバーチャルリアリティです。

森万里子は現実(日常)と仮想現実(非日常)の境目にレイヤーとして現れ、それをジョイントする役割を演じています。
コスプレそのものが日常から非日常へのスライドですから、これは二重の構造をもっていることになります。
この役割が一層ハッキリするのは、「ラスト・デパーチャー」と「リンク・オブ・ザ・ムーン(巫女の祈り)」。
レンゾ・ピアノ設計の関西空港で撮影されたカラープリント/ビデオ作品です。

ホワイトの髪にシルバーのコンタクトレンズ、未来の妖精のようなコスプレ、手には水晶球。
近未来的な関空に近未来的なコスプレ。
空港は旅の発着点です。
「ラスト・デパーチャー」、訳せば最後の出発、意味深なタイトルですね。
「リンク・オブ・ザ・ムーン」の月は竹取物語のかぐや姫を連想させます。
この二つの作品で森万里子は「この世」と「あの世」の境目に自身をジャンプします。
巫女=シャーマンとして。



パート2は<NIRVANA>。
ここで森万里子は宗教的世界に一気に突入します。
作品サイズも巨大になり、空間的にも時間的にもスケールを拡げます。

「エントロピー・オブ・ラブ」、「バーニング・デザイアー」、「ミラー・オブ・ウォーター」、「ピュア・ランド」、いずれも3m×6m超のガラスで覆われたカラープリント作品。
アリゾナ、中国、フランス、死海の荒涼とした土地を背景にCG合成でコスプレの森万里子。

ここでのコスプレは、以前とほぼ同じ近未来キャラと宗教色の強い天女、仏。
圧巻は「ピュア・ランド」の天女です。
冒頭の3Dビデオインスタレーション「ニルヴァーナ」のカラープリント版が「ピュア・ランド」です。
死海をバックに宙に舞う天女の森万里子。
足下には蓮華座。
天女の周りにはアニメのキャラの侍童が雲に乗って雅楽を奏しています。

これが、浄土の図なんですね。
大胆不敵というか、怖いもの知らずというか・・・・。
ここまでやると、「お見事!」と掛け声の一つもかけたくなります。
ま、それくらいインパクトのある作品です。

しかし、しかしですよ、宗教のビジュアルとは元々こういうものです。
仏教にしたって、キリスト教にしたってそうです。
こけおどしスレスレのビジュアルなんです。
建立当時のお寺は金ぴかのハイテクで、まわりの風景から完全に浮いていました。

そうですねぇ、今で例えれば先ほども出た関空とか有楽町の東京国際フォーラムあたり。
ああいった前衛建築だったんですね、当時のお寺は。
お寺の中の絵もサイケデリックな仏像画でした。

キリスト教の教会だって、ステンドグラスや天井画でヴァーチャルな空間を演出していました。
歴史を経て、渋いだのワビだの言ってますが、設立当時はトランスに誘うための最新鋭のビジュアルでした。
音響もそれにそって、エコーがこの世のものとは思えないほど美しく響くように設計されていました。
お寺も読経が心地よく響くように造られています。

新興宗教の本部の建物が概ね前衛建築家設計なのも同じ理由からです。
(安藤忠雄も教会や寺の設計をしています。)
だから、実は森万里子のハイテクは宗教的には正統なんですね。

ここで、シャーマン、天女について考えてみます。
シャーマンは、神霊、精霊、死霊と直接交わることの出来る人です。
天女は仏教用語で欲界六天に住む人、つまり最上界の人です。
天女は人間ではないが、人間界に時々降りてきます。

シャーマン、天女は、神あるいは宇宙の意志と人間との媒介をする役割を持っているということですね。
森万里子のコスプレは、自身をそう定義していることになります。
天女や巫女のコスプレは、そう解釈していいと思います。

元来、職業的美術家は宗教、呪術のおいて神との媒介をする役目を持っていました。
それが近代以降、芸術となって市民社会を基盤にもつようになりました。
歴史から見れば宗教、呪術との関わりの方が圧倒的に永いことは言うまでもありません。
森万里子がシャーマンであったり天女であったりするのは、歴史的に見ればそれほど不可解なことではありません。
ま、その直裁性には、やはり驚きますが。

パート2は、3Dビデオインスタレーション「ニルヴァーナ」、ビデオインスタレーション「クマノ」、「エンライトメント・カプセル」と続きます。
「クマノ」は熊野神社のクマノです。
神仏混交、本地垂迹の信仰です。
このビデオは熊野で撮影された映像をもとに、CGと実写で巫女、かぐや姫、茶道、ドリームテンプルをリミックスしたものです。

「エンライトメント・カプセル」は、美術館屋上に据えられた集光器で集めた光を屋内のカプセルに運んだ作品です。
太陽光線の照明でカプセル内のプラスチック製蓮華座が照らし出され、その量によって明るさが変化します。
このオブジェは森万里子の作品としては異色ですが、個人的にはつまらないと思いました。
チープがチープで終わった作品です。


パート3は<DREAM TEMPLE>。
「アラヤ」は三十三点の平面作品。
紙に水彩とドローイングです。
従来の美術に一番近い作品で、後述の「ドリームテンプル」の基になっています。
有りそうで、その実見たことのない平面です。

「アラヤ」の隣室が、「クマノ」(カラープリント)と「ガーデン・オブ・ピュリフィケーション」の大インスタレーション。
「ガーデン・オブ・ピュリフィケーション」の意味は「浄めの庭」です。
その名の通り、塩が敷きつめられた石庭風の庭です。
庭には踏石が配され、鑑賞者はその石を渡って「ドリーム・テンプル」に行く仕掛けになっています。

庭の数ヶ所に球と水晶が置かれ、神秘的なムードを作っています。
ただし、踏石は一見自然石に見えますが、実は樹脂製。
踏みごこちがヘンで、足が地に着かない感じです。
この踏石は、ここがヴァーチャルな空間であることを主張しています。
(この辺りの安っぽさはわたしの好みです。)

「クマノ」にはコスプレの森万里子がCG合成で二体写っていますが、パート3で彼女自身が登場するのはこの作品だけです。
そして、「ドリーム・テンプル」。
直径約10m、高さ約5m、ダイクロイック・ガラスで造られた夢殿です。
ダイクロイック・ガラスは角度によって色が異なり、透明にもなるガラスです。
質感は、ガラスというよりプラスチックに近いものがあります。

夢殿の中には小さなドームがあり、ここで鑑賞者は4分40秒の視覚、聴覚、嗅覚を動員した光のトリップを体験できます。
ただし予約制で、しかも一回につき一人の鑑賞者しか体験できません。
わたしはこの展覧会に二度行ったのですが、館内がガラガラにもかかわらず予約をしなかったので体験できませんでした。
ま、だいたいの想像はつきますので、体験しなくても心残りではありませんでした。

森万里子は臨死体験があったそうです。
その体験が、作品を作る契機になっているそうです。
彼女の臨死体験はかなり特異で、身体的なダメージを伴わない意識の臨死体験です。
ある瞬間に意識が死にスリップして、そこから脱出して生に戻るまでに生命体としての自己を認識したそうです、

この体験以降、死を彼岸のものではなくて、此岸のものとして捉えるようになったそうです。
彼岸は向こう岸で、此岸はこちら側の岸です。
こちら側に死があるということは、生と同じ地平に死があるということです。
これは、「迷信」です。
近代が葬り去った「迷信」を、森万里子は堂々と肯定していることになりますね。
「ドリーム・テンプル」は彼女の「迷信」の集大成であり、ハイテクは「迷信」のための装置です。

問題は、「迷信」です。

最後の作品は、「ミラクル」。
八点の円形カラープリント作品と塩、水晶によるインスタレーションです。
この作品は美しいです!
個人的には最も好きですし、彼女の最高傑作だと思います。

この展覧会を一通り観ると、身体性の欠如に気がつきます。
ヴァーチャルな空間にあるのは、意識だけ。
身体は孤立したまま、意識の壮大なトリップを経験します。
もし近代を超克するキーワードが身体だとしたら、これは逆行した表現といえます。

この方法が正解であるかどうかは、今のわたしには判断がつきかねます。
ただ、潔いと思います。
ヴァーチャルな現実をさらに推し進めて、ヴァーチャルな未来に賭けた勇気は評価します。
毒をもって毒を制する、その方法はリアリティがあると思います。

すべての世界から断ち切られ、すべての世界と繋がりをもてないわたし達。
「♪ 神様に会いたい・・・・」。
もし神様に会えれば、わたし達は世界の一員になれるかもしれない、と「ピュアランド」展で森万里子は囁いています。

ところで、わたしは「癒し」という言葉が嫌いです。
「癒し」をテーマにした美術が嫌いです。
安易に自然や身体と馴れ合った「癒し」が嫌いです。
だったら、ヴァーチャル命で、コスプレ命のオタクである森万里子の作品の方がリアリティがあって好きです。

近代は、宗教を否定して科学をナビゲーターにしました。
(実は、近代の後ろ盾はキリスト教だったりもするのですが。)
一概に宗教といってもいろいろあります。
最も否定されたのは「迷信」という宗教です。

次回は本物の「迷信」の世界を考察したいと思っています。
「吹矢と精霊」。
ファンタジックで面白い世界ですよ。
テーマパークよりは、百倍も面白い世界です。

<第四十二回終わり>




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