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iの研究


第四十回 <善と悪>の研究


待ち合わせは、日生劇場。
そう、今日はミュージカルを観る日です。
といっても、わたしはミュージカルがそれほど好きなわけではありません。
ま、お付き合いです。
付き合いというのも大切で、そこで思わぬ発見をすることがあります。

常に自分の興味の範囲で動いていると、知識は深くなりますが視野が狭くなってしまいます。
ですから、珠には他人の趣味に合わせることも必要ですね。
本日上演されるのは、「ジキル&ハイド」。
あの有名な「ジキル博士とハイド氏」を脚色したミュージカルです。
善と悪のドラマですね。
主演は「料理の鉄人」でお馴染の鹿賀丈史。


1988年ロンドン、医師であり科学者であるヘンリー・ジキルは、「人間の善と悪の両極端の性格を分離できれば、人間のあらゆる悪を制御し、最終的には消し去ることが出来る」という仮説を立て、それを立証すべく7年前から研究に没頭していた。
ジキルは病院の理事会で人体実験の承諾を得ようとするが、理事たちは道徳無視、神に対する冒涜であると拒絶する。
ジキルの婚約者エマの父親であるダンヴァース卿のとりなしもむなしく、理事会はジキルの要請を却下した。
ジキルは親友の弁護士アターソンに怒りをぶつける。
理事会の連中はみんな偽善者だと。

上流階級の社交の場からジキルとアターソンは抜け出し、暗くて陰気なスラム街にたどり着く。
場末の悪名高き名所、売春宿「どん底」。
ここでジキルは娼婦ルーシーと出会う。

その後ジキルは遂に薬を完成させ、それを飲み干すと、突然に全身を貫く激しい痛みに襲われそして、「ハイド」が現れた!
「どん底」のルーシーのもとにハイドが現れ、強引に、暴力的にルーシーを口説く。

一週間。
ジキルは研究室から姿を見せない。
ジキルの家に、ルーシーが訪ねてくる。
傷つけられた身体と、そして心を癒してもらうために…。
ジキルは、ルーシーが、ハイドによって傷つけられたことにショックを受ける。
つかの間のやすらぎを見出したルーシーは、愛のある日々を夢見る、が…

病院の理事会の一員である大司教が、娼婦と腕を組んで場末の通りを歩いている。
そこにハイドが現れ、偽善者と罵倒しながら、大司教の頭をステッキで叩きのめす。
やがて、理事会のほかのメンバー、将軍、伯爵夫人、勅撰弁護人、伯爵も次々とハイドの手にかかり、むごたらしく殺されてしまった。

最初の実験から一ヶ月。
ジキルの身の回りに異変が起きたことを、エマは知る。
説明できないことに苦悩するジキル。
アターソンもまた、遺言状の書き換えを依頼してきたジキルに不審の念を抱いていた。
ハイドの暴走を何とか止めなければ! ルーシーにも危険が迫っている。
しかし、いまや変身は薬の作用だけではなく、自発的に変身を誘発する様になってしまった。
生命の危険を覚悟の上、薬品の配合を変えるジキル。
 ひとつの体に宿った二つの魂「ジキルとハイド」の死闘が続く… 恐ろしい破滅へ向けて二つがひとつとなり、驚くべき速さで転げ落ちて行く……。


「ジキル&ハイド」の公式サイトに載っていたストーリーを要約してみました。
ミュージカルの「ジキル&ハイド」を見終わって意外に思ったのは、悪つまりハイド氏が魅力的に見えたことです。
これはわたしだけの感想ではなくて、同行した友人もそう思ったそうです。
このことは気になりました。

わたしの知識の中の「ジキル博士とハイド氏」と随分違うからです。
気になったことは研究するのがわたしの基本ですから、まずは原作にあたってみました。
このミュージカルはかなり脚色してあります。
原作ではジキル博士に婚約者もいなければ、娼婦のルーシーも病院の理事達も登場しません。
原作でハイド氏が殺しているのは一人だけです。
それも、著名人であってもジキル博士とは直接の利害関係がない貴族です。



原作のジキル博士は壮年の独り者で、女気(おんなけ)が全くありません。
まぁ、これをそのままミュージカルにしたら成立しませんね。
何といっても、ミュージカルの命は恋愛ですから。

壮年の男が変身ゴッコをしてのたうち回るミュージカルを観ても、面白くもナンともない。
そこで、エマとルーシーを創出して、この特異なミステリーに色彩感を与えました。
多分そういったことだと思います。

理事会のメンバー殺しは、「必殺仕掛け人」です。
世の中を動かしている偽善者達を暗闇で抹殺するわけですからね。
ですからハイド氏の悪には、自己の利害関係から出発したとはいえ、どこか世の中を正すといった意味合いがあります。
同じ悪でも、この悪は魅力的ですね。

エマとルーシーとの恋愛でも、ストーリーの中心になるのはルーシーの方です。
つまり、ジキル博士とエマとの清純な恋愛より、ハイド氏とルーシーの暴力的で本能的な性愛の方が観客の心を動かします。
より正確にいえば、ジキル博士とハイド氏の二面性に魅かれたルーシーの恋愛がメインストーリーになっています。

悪が魅力的なのは、まぁ今の風潮です。
BADはクール(カッコいい)なのです。
しかも、サイコなBADと誠実でアッパーなハンサムが同一人物ならいうことありません。
現実ではともかく、それが空想の世界では魅力的な存在になります。
なんたって、今はレクター博士がもてはやされる時代ですから。
エレガントで、しかもBAD!

さて、ミュージカルが面白かったかというと、残念ながらそうでもありませんでした。
なんとも平板なんですよね。
物語に奥行きというか、立体感が不足していました。
全般に物足りなさを感じてしまいました。
(その所為か、制作陣の意気込みとは裏腹にチケットの売れ行きが芳しくなく、ディスカウントされていました。)

同じように、ジキル博士(ハイド氏)と女性の愛憎を中心に据えた映画もあります。
「ジキル&ハイド」(監督
スティーヴン・フリアーズ 1996年制作)。
主演は、ジョン・マルコヴィッチ。
鹿賀丈史とジョン・マルコヴィッチじゃ、どうみても後者の勝ちですよね。
予想通りジョン・マルコヴィッチ大熱演で、役者の違いを見せつけました。

この映画の原題は「MARY REILLY」。
そのメアリー・ライリーに扮するのがジュリア・ロバーツ。
映画の原作はスティーヴンソンの「ジキル博士とハイド氏」ではなくて、ヴァレリー・マーティン原作の「メアリー・ライリー」です。
原作には登場しない、ジキルの屋敷に住み込みで働いている女性奉公人の日記というスタイルで新解釈したものです。
物語の進行役である弁護士アターソンも出てきませんが、それ以外はミュージカル版よりも原作に忠実に作られています。

メアリーは父親に幼児虐待された過去をもつ女です。
この幼児虐待が結構複雑で、憎悪の中に奇妙な愛情が垣間見られます。
どこか背徳的な愛情です。
このトラウマがジギル博士/ハイド氏と二重写しになり、メアリーは関係の深みにハマっていきます。

心優しきジキル博士と悪魔のようなハイド氏が同一人物、こちらも二重性がミソになっています。
この映画、かなり良く出来ています。
特に19世紀末のロンドンの様子が丁寧に描かれています。
重厚な舞台劇を観ているような気にさせられます。

残念なのは、ラストでハイドがジキルに変身するシーンをSFXで見せるのですが、これが全くの興ざめ。
それまでの重厚さが一遍に吹っ飛んでしまいました。
これは心理劇なんですから、それをSFXで見せられちゃあね〜、腰が砕けますよ。

女性が紳士と悪魔に魅かれるのは良く解ります。
ジェントリーに、それでいてワイルドに身も心も砕けるように愛されたいからです。
その二面性が女心を翻弄する、あるいは、女心は翻弄されたいのでしょうね。



BADがなぜ今ウケるか、という話の続きは又の機会にして「ジキル博士とハイド氏」の原作を考察してみます。
ここからが、<善と悪>の研究の本題です。

原作者スティーヴンソンは1850年にスコットランドのエジンバラで生まれています。
生まれつき病弱で、家業を継ぐために学んだ工学やその後取得した弁護士の資格を活かすことなく、文筆の道に進みます。
病弱のわりには紀行文を得意とし、アメリカ人の人妻と大恋愛の末に大西洋を渡ります。
人妻の住むカリフォルニアに着くまでには、病弱のため二度も瀕死の危機にあったそうです。
結局この人妻と結婚し、持病の肺患の治療に最適なサモアに家族で移り住み、そこで44才の短い生涯を終えています。
ドラマティックな生涯ですね。
そのまま映画になりそうです。

代表作は、「宝島」と「ジキル博士とハイド氏」。
「ジキル博士とハイド氏」を、スティーヴンソンは三日三晩で書き上げたそうです。
コカインを服用しながら。
これは有名なエピソードだそうです。

当時、コカインは違法ではありませんでした。
しかし面白いですね、コカインの力で気分を高揚させ一気に書き上げたとは。
スティーヴンソン自身に「ジキル博士とハイド氏」的性格があったという説もあります。
きっと、コカインでハイド氏的性格になった時に本書を書き上げたのでしょうね。

原作を読むと、ジキル博士=善、ハイド氏=悪というお馴染の図式が間違いであることに気が付きます。
ハイド氏は悪なのですが、ジキル博士は善ではありません。

それゆえにわたしは今や二重の容貌と二重の性格の持ち主であったが、その一つは完全な悪であり、他の一つは以前として昔ながらのヘンリー・ジーキル、すなわち、矯正も改善もすでに絶望となったあの調和せざる混合体であった。
(新潮文庫 田中西二郎訳「ジキール博士とハイド氏」より 以下の引用も同じ。この本ではジキルはジーキルの表記になっています。)

調和せざる混合体とは、

わたしは18―年に、ある資産家の家に生まれた。
傑れた才能に恵まれ、将来勤勉、同胞中の賢明善良な人々と交わることを好んだ。
かくて十分に高貴顕栄の将来を保証されていたことは想像に難くないところである。
わたしの最悪の欠点は、抑えることのできない享楽性にあった。
この気質のために多くの人は幸福を味わったであろうが、わたしの場合は、尊大に構えて人前に尋常以上の威厳をとりつくろっていたいというわたしの傲慢な欲望とこの気質とは、氷炭相容れないものであった。
その結果、わたしは自分の快楽を人に隠すことを始め、分別のつく年齢に達して四囲の情況をも観察するようになり、栄達と社会的地位とを仔細に検討し得た頃には、既に甚だしい二重生活の深みに陥っていたのである。

つまり、精神の奥底に悪を飼っていたジキル博士は、薬を飲んでも以前と同じジキル博士だったのです。
「ジキル博士とハイド氏」は二重人格の代名詞のように使われていますが、これは間違いですね。
現代的な意味での二重人格、あるいは多重人格(同一性乖離障害)とは違います。
ジキル博士は善と悪の混合体であり、
抑制していた悪が解放されてハイド氏が生まれたわけですから
その混合体はそのまま残ってしまったのです。
ジキル博士の試みは自身を善と悪に分離することでしたから、実験は失敗したことになります。

善と悪を分離して、思う存分自身の善と悪を全うするのが博士の白昼夢であり、その二つを同一の身体に宿しているのが人生の災いと考えていたからです。

ハイド氏の誕生後、ジキル博士はその二重生活を楽しんでいました。
いかにハイド氏が悪行を重ねようとも、薬でジキル博士に戻ってしまえば全く安全だからです。
ジキル博士に復帰した瞬間、ハイド氏は跡形もなく消え去っているのですから。
ジキル博士がこの二重生活を楽しんでいたことは、ミュージカルや映画ではほとんど触れていません。
あくまでも、ジキル博士は善として描かれているからです。

ジキル博士が窮地に至ったのは(その二重生活を後悔するようになったのは)、身体が勝手にハイド氏に変身するようになってからです。
薬を飲んでいないのに、唐突にハイド氏に変身するようになります。
一人の人格の中で、ハイド氏が徐々に優勢を占めていった結果です。
おまけに、調合した薬が残り少なくなり、再び作ろうとしても失敗してしまいます。
調合した薬の中の成分には偶々不純物が混じっていて、同じ薬を作ることが不可能になってしまったからです。

そこで始めて、ジキル博士は実験を後悔するのです。
善と悪の分離には失敗したものの、ジキル博士はその結果生まれた二重生活をそれまではエンジョイしていたのです。
自身の身に危険が迫って始めて後悔したんですね、ジキル博士は。
実に、人間的ですね。
だから、ジキル博士は混合体であって、決して善ではないのです。



ここでジキル博士がハイド氏に変身するシーンを引用してみます。

肉を引き裂くような激痛が起こった。
骨々の砕けるような痛み、死ぬほど吐気、生まれでる刹那、断末魔の刹那の恐怖にも劣らぬ精神の恐怖、やがて苦痛はたちまちうすらぎ、わたしは正気づいたが、あたかも大患からやっと生きかえった心地であった。
その感覚は一種異様な、一種言いようのない清新な感じで、その清新さのために信じがたいほどの甘美な感じでもあった。

この描写から伺い知れるのは、解き放たれた悪が清新で甘美だということです。
何か、身も心も生き生きとしちゃう感じですよね。

さて、小説の中でハイド氏が犯した悪は、少女に対する暴行とサー・ダンヴァースの殺害です。
少女への暴行は、単なる暴行で性的な意味を含みません。
両者とも行き当たりばったりの通り魔的な犯行です。
ハイド氏に変身することによって生まれでた溢れるようなパワーを、あたるを幸いに行使した結果です。

ところで、具体的な事実としては書かれていませんが、最後のジキル博士の告白(陳述書)には頻繁に性的なニュアンスの言葉が出てきます。


空想のなかを水車を回す奔流のように流れ止まらぬふしだらな肉感的な幻影
逸楽にふけりたい気分
わたしが姿を変えてまで焦り求めた快楽は、わたしの品位を損なうものであった
放埒な遊びをして帰ってとき
獣のごとく貪欲に快楽を貪り
長いあいだひそかに楽しみに耽り近頃では耽溺するようになった数々の欲望
秘密の快楽

これらの言葉はどうしたって性的なことを連想させます。
でも、ジキル博士が何を夢見、ハイド氏が何を実行したかの記述はありません。
読者が想像するしかないわけです。

この想像するしかない部分が、ある意味でミュージカルと映画の主題になっています。
獣のごとく貪欲に快楽を貪る、背徳的で暴力的な恋愛関係。
それを明らかにするためにヒロインを登場させたのです。
ジギル博士とハイド氏とは、ジェントリーでありながら、ワイルドな恋愛を象徴するものです。
生命のたぎるようなワイルドな愛と、全てを委ねられるようなやすらかで優しい愛。

この小説を読んでいると、悪のエネルギーについて考えさせられます。
悪のエネルギーは、性のエネルギーと置き換えても間違いではないと思います。
わたしにはそう読めました。
人間は、性という迸(ほとばし)るようなエネルギーを抱えています。
それが人間の生命力の源でもあるのですが、そのアナーキーなエネルギーを放置すると社会も崩壊してしまいます。

ジキル博士のようにず〜と心の暗闇に押し込めていると、それが表に出て爆発した時には制御不能となってしまいます。
そう、ハイド氏のように。
人間が社会というものを必要とした時から、性をどのように扱うかは大問題だったと思います。
エネルギーは生殖だけでは消費しきれません。
剰余の部分を如何にコントロールするか、それが文明、文化の問題になります。
性のエネルギーは簡単に悪になってしまうからです。

如何に上手くそれを逃がすか。
昔、祭りの夜には性はおおっぴらに解放されていたと聞きました。
性の無礼講ですね。
夜這いという風習もありましたね。

こういう知恵は、性のエネルギーを上手く逃がす文化だと思います。
性を大らかなエネルギーとして解放する共同体の知恵です。
世界中の至る所にこういった知恵があったと思います。
戒律の厳しいイスラム圏も例外ではないでしょう。

このような風習は、悪習として近代が進むにつれて駆逐されてしまいました。
遊廓(その是非はひとまず置きます)も廃止され、今は風俗店という非合法売春に変わりました。
あるいは、テレクラとか出会い系サイトがその役割をしています。
犯罪の温床といわれている場所ですね。
つまり、性のエネルギーは時と場合によっては簡単に悪になるということです。
しかも、それが商品となっていれば尚更です。

人間はジキル博士のように混合体であり、それが自然の姿です。
街もそうです。
悪所がある方が自然なのです。
(そこで、性が「取扱い注意」であることを学ぶのです。)
それを排除してクリーンで明るい街に作り替えた時、悲劇はあらぬ方向からやってきます。
街だって日が当たるところもあれば、当然影の出来るところもあります。
影を排除すると、影は白い暗闇となって街を襲います。
白い暗闇は見えないから、それが何であるのか分かりません。

スティーヴンソンが「ジキル博士とハイド氏」を書いたのは19世紀の末です。
近代的システムと科学が手を携えて未来を切り開こうとしていた時代です。
科学は人間の内面や性にもメスを入れ、それを科学的に解明しようとしました。
あるいは近代の法律で人間を規制しようとしました。
スティーヴンソンはその危険性に気が付いて、「ジキル博士とハイド氏」を書いたのかもしれません。
人間は混合体であり、それにヘタにメスを入れるとロクなことになりませんよ、と言いたくて。


善と悪を、ジェントリーとワイルドと考えれば、どっちも持っていたほうが素敵ですね。
問題は、いかにそれを上手く解き放っていくことではないかと思います。

<第四十回終わり>


<おまけ情報>
「ジキル博士とハイド氏」はオンラインで無料(ただ)で読めます。
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(作家名/スティーヴンソンか作品名/「ジキルとハイド」で探して下さい。)
モニターで読むのがツライ人は、テキスト版をダウンロードしてプリントアウトしてお読み下さい。




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