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iの研究


第三十八回 <世界>の研究(1)


わたしは今この文章を自室で書いています。
わたしの自室は、現代美術作品が壁に掛かっているのと、
デスクがコンピュータの機器でゴチャゴチャしているのを除けば格別変わったところはありません。
本や雑誌が所々に山積みになっていますが、たいした量ではありません。
本の好きな人や、読書家からみれば微々たる量です。

三年ほど前、ある美術作家と話をしていとき、キャラクターグッズで部屋を埋め尽くしている人が話題になりました。
インテリアの雑誌、たしか「私の部屋」に出ていた部屋の話だった思います。
わたしもテレビでそういった部屋を見たことがあったので、その話に興味を持ちました。

床から壁から天井まで、キャラクターで埋め尽くされた部屋。
異様な光景ですが、その部屋の主の気持ちが何となく解るような気がしました。
そうしないと、どこかで精神の安定が保たれない。
それが、良く解るのです。
人が何と言おうと、キャラクターで自分を保てるなら、それはそれで良いとわたしは思います。

世間にキャラクターが氾濫しているのは、皆さん知ってますよね。
貴方の身に付けている品々や携帯品、貴方の部屋の日用品やインテリア、必ずキャラクターが潜んでいます。

わたしはキャラクターには縁がないと思っていましたが、自室を見回してみると、
壁に鉄腕アトムファミリーのピンが飾ってあります。
テレビの上にはキャラクターの緑のカエル人形が置いてあります。
(ビンゴで当った)スヌーピーの本もあります。
ミッキーマウスの極彩色ポストカードを額装したものが壁に立て掛けてあります。
タンタンのTシャツがタンスに入っています。
Zちゃん(知人の井口真吾くんが創作したキャラクター)が冷蔵庫の上にいます。
ペプシマンが立体作品を飾る台座に上にいます。
携帯のストラップも最初は「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のキャラでした。
(リングが切れて今は何も付いていないのですが。)
食器棚にはタンタンのカップ、洗面所にもタンタンのバスマット。
極め付けは、デスクの上のiMacにポストペットがインストールされていることです。

この中で自分で購入したのは、タンタンのTシャツ1枚とZちゃんとペプシマンとポストペットです。
(多くはいただいたものです。つまり、キャラクターはコミュニケーションツールでもあります。)
果たして縁がないと言いきれるかどうか自信がなくなってきました。
これだけ持っているとは、自分でも意外です。
縁がないと思っていても、特別なキャラクターに執着していなくても、普通これくらいは持っているでしょうか。
ちなみに貴方の部屋を点検してみて下さい。

ポストペットは、今使っていません。
このキャラは現代美術作家の八谷和彦さんの創作です。
よくできたコミュニケーションツールです。
しばらくは面白がって使っていましたが、このメールソフトはメルマガ等の比較的重いメールをうまく受信できません。

これは、アプリケーションが通常のメールのみを想定して作られている為です。
不具合(バグ)というわけではないようです。
個人的にはメルマガが受信できないのは困るので、結局OEに乗り換えました。
実を言うと、ポストペットに「カワイイ」と思うキャラがいなかったのがアッサリ乗り換えた理由です。
感情移入できなかったのですね、どのキャラにも。

今文章を書いていて、急に思い出しました。
昔(かれこれ25年前ほど)、ペコちゃんをキャンバスに描いたことがありました。
ペコちゃんが段ボールに印刷されていたのがひどく気に入って、
それを1.5mの正方キャンバスにそっくりそのまま拡大してアクリルで描きました。
キャンバスに方眼を書いて、かなり正確にトレースしました。
色も段ボールの色とペコちゃんの印刷色の赤を忠実に再現しました。

これじゃ、縁がないどころか結構縁がある人生を送ってきたことになりますね。
コレクションの趣味がないだけで、キャラクターが結構好きだったんですね、わたしは。
今ごろ自覚するなんて、ちょっと恥ずかしいです。
その作品(とは呼べないが)は友人に二万円で譲った憶えがあります。
その友人が妹に譲渡したまでは行方が分かっているのですが、その後はどうなったか・・・・。



思い出話をしている場合ではありません。
本題に戻ります。
キャラクターは以前から研究対象として関心がありました。
それで、「87%の日本人がキャラクターを好きな理由」(香山リカ+バンダイキャラクター研究所/著)を先日購読しました。

キャラクターを多角的に研究した面白い本でした。
ここで、この本でわたしが気になったページをご紹介します。

太田紀代美さん(仮名・35歳)の話です。
太田さんは、債権回収の仕事をしています。
朝8時半から夜8時まで、電話で債権回収とクレーム処理をしています。
電話をかけ続ける、時には受ける仕事です。

本には書いてないのですが、仕事内容から察して金融関係の会社に勤務していると思われます。
多分、サラ金関連ではないかと思います。
電話をして喜ぶお客さんは誰一人としていないそうです。
ま、そうでしょうね。
借金返済の催促ですから。

長い交渉だと30分はかかります。
その間、彼女は言いわけにも何もなっていない話を延々と聞かされます。
口を挟むと余計話がもつれるので、我慢してただただ聞きます。
それが、12時間近く続きます。

ま、もたないですね普通の人は。
キレますね、どう考えたって。
でも、彼女は仕事を続けているのです。
どうやってやり過ごしているのでしょうか?

彼女のデスクには彼女を守るように、キャラクターがそれこそ満載されているのです。
キャラクターで結界が作られているのです。

「たれぱんだ」の卓上カレンダー、編みぬいぐるみ5種、動くオモチャ、置き時計、マウスパッド、ペン立てにははさみ、ボールペン、シャープペン、消しゴム。
うちわもあります、クリップファイルは「たれぱんだ」の他、「くまのぷーさん」、「ピノキオ」、「ダンボ」。
「紀香」のシールもあれば、引き出しの中のスタンプは「たれぱんだ」、「ぷーさん」、「トーマス」と各種。
レターセットは「たれぱんだ」で、鉛筆削りは「101」、メモは「たれぱんだ」に「アフロ犬」、「ぷーさん」、とどめに「たれぱんだ」のクリップ。

フ〜、疲れた。

電話中、「たれぱんだ」のメモに落書きをして気を紛らわしているそうです。
メモ帳の「たれぱんだ」の顔に髭をつけたり、頬紅をつけたりしながら、「たれぱんだ」ペンを握りしめるそうです。
パソコン作業をして目が疲れたときは、編みぐるみをぼんやり眺める。
そうすると、表情がほころび、ホッとして心の深いところが休まるそうです。

新人教育も彼女のストレスの種です。
注意すると、すぐふくれる。
だから、自分を取り戻すためにキャラクターを飾っています。
結界をつくって自分だけの世界に入る、そうすると落ち着きを取り戻せる。
家にいる時間より長い社内の時間を、そうやって保っているそうです。
周りにいる同僚も何かしらのキャラクターで飾っているので何も言わないそうです。

「ふっくらとした、とぼけた感じがいいんですよね。
ポワァ〜ンとしていて、とろけそうな表情で、ひなたぼっこを想像させてくれて。
見ているだけでストレスが和らぎます。」



う〜ん、この仕事は果たして仕事といえるのでしょうか。
もちろんこの仕事にはそれなりの報酬があるわけですから、立派な仕事です。
わたしが言いたいのは、本来の仕事からみて仕事といえるかどうかということです。

本来の仕事とは、それが生きるため(生計を立てる)のものであると同時に、なにかしら社会と結びついたものだと思います。
人類の誕生がいつごろか分かりませんが、その長い歴史からみれば、つい最近までの仕事とはそういうものでした。
この仕事は、社会との結びつきが皆無のような気がします。
営利(利潤の追求)以外に何もない気がします。
金融そのものは、それはそれで社会的な結びつきがあるものです。
(それが必要とされる社会に限っていえば、の話ですが。)
しかし、それが細分化されて、しかも顔の見えない相手と一日中したくもない話をする。
生計のためにしょうがなくやっている仕事、つまり本来の仕事とは違う種類のものだと思います。

彼女の仕事環境(キャラ満載のデスク)やそれを作った彼女の精神は、いってみれば病理です。
昔の基準でいえば、病理です。
この仕事自体も病理です。
でも、今の基準でいえば病理ではありません。
もし、彼女を病理といえば、わたしも病理になります。

わたしの精神構造や日常は、彼女とそう遠いところにありません。
何かにすがって、自分の精神の安定を保っているからです。
彼女の仕事は特殊といえば特殊ですが、多くの人は彼女と同じようなやり切れなさを仕事に持っていると思います。
だから、多くの人は仕事以外の何かに没頭してそれの埋め合わせをしているのです。

もちろん、世の中には充実した本来の仕事をこなしている人もいると思います。
でも、数は少ないでしょうね、今の社会で自己実現といえる仕事をしている人は。
根拠はないのですが、生活の実感としてそう思います。

病理は人間の精神の有様をいうわけですが、これも怪しいですね。
過去では病理でも、今では病理ではない。
病理と病理でない境があやふやです。
病理そのものも、仕事の本質の変遷(社会の変遷)と関わりがありそうです。


太田さんの話の後で、香山さんが文章を書いていますのでそれも紹介します。

「この方のように、ビジネスという厳しい大人の世界から、生産性の低い子どもっぽい世界に一時戻ることで羽を休める。
そのためにキャラクターを利用する人が増えていると言います。
表情のないキャラクターに自分の感情をぶつけ、自分が悲しいときは慰めてもらったり、うれしいときは一緒に喜んでもらう。
キャラクターは、自分を励まして厳しい仕事の場に再び出て行けるようにしてくれる。
複雑化したストレス社会に生きる私たちにとって、キャラクターを癒し系グッズとして用いる風景は容易に想像できます。」

複雑化したストレス社会。
これは、今の社会を形容するときの決まり文句ですね。
ストレス、という言葉が出てきたのは1960年代だと思います。
高度成長の時代です。
「不定愁訴」という日本語が当てはめられていました。
「不定愁訴」、何のことだか分からないですね。
「再起動」とか「名称未設定」に似ていて、イマイチ実感のない言葉です。

それが、誰もが口癖のように、「ここんとこ、ストレス溜まってんですよ。」になりました。
言葉が徐々に根づいた好例かもしれません。
(ホントは根づかなかった方が良かったんですが。)



複雑化したストレス社会。
どうしてこうなったのでしょう。
そこが問題ですね。
何が社会を複雑化させて、何が社会にストレスを生んだのでしょう。
(そして何が、仕事の中身を大きく変えたのでしょうか。)

話はここで大きく転換します。


アメリカの同時多発テロからもうすぐ二ヶ月になります。
あの事件は、わたしの世界と繋がりのある事件です。
わたしの世界は、海を越えた遥か彼方の地の事件と関連しているのです。
それは、わたしが頭の悪いインテリであることも少しは関係しています。
(インテリには頭の良いインテリと頭の悪いインテリがいます。
インテリでない人に頭の良い人と悪い人がいるように。)

インテリは無闇に自分の世界を空間的、時間的に広げます。
しかし、ベトナム戦争が専らインテリの世界の話題であった時代と今は違います。
今は、情報が無差別に人を襲う時代だからです。
襲うのも速ければ、消えるのも速い情報の渦に巻き込まれて、人々の世界は歪み続けます。

あれから、わたしは比較的テレビのニュースを見るようになりました。
新聞も海外欄に目を通すようになりました。
わたしは政治に関心がない方です。
気紛れで選挙には行きますが、別に入れたい人がいるわけではありません。

そんなわたしですから、事件以降の推移を見ていても、何が核心にあるのか一向に理解できません。
ましてや、今の戦争は情報戦としてわたし達の前に姿を顕します。
メディアのバイアスがかかったものしか、わたし達は接することが出来ないのです。
現実に飛び交う情報は次々に更新され、情報の精度の判断もままなりません。
わたしは、わたしの世界の出来事の傍観者としてしか存在できません。

WTCビルに旅客機が自爆した意味を考えてみました。
あそこは世界の金融、経済の中心地です。
あそこにあるのは、世界=アメリカだからです。
そう思っている人たちが世界を動かしているからです。

それに異を唱えるグループが、あそこを狙ったのは良く分かります。
分かるというのは、理解できるということではなくて、意図が分かるという意味です。
金融、経済が軍事、政治以上に世界を動かしているのは事実ですから。

わたしは、考えました。
複雑なストレス社会とあそこはどっかで繋がっているのではないかと。
深い根っ子のところで繋がっているような気がします。
今はまだぼんやりとしか見えない繋がりを、これから考えてみようと思います。

というわけで、<世界>の研究は断続的に続く予定です。
少しずつ、回り道をしながらゆっくりと深いところに入っていけたらと思っています。
次回の<世界>の研究は、ガーンディーの「真の独立への道」(岩波文庫)をテキストに考察します。
ガーンディーは「インドの独立の父」で非暴力、不服従主義で知られる人です。
この本には感銘を受けました。
この本をテキストに選んだ経緯も書かせていただきます。
それでは、次回。

<第三十八回終わり>





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