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iの研究


第三十回 <カネオ>の研究


1972年の夏。
光化学スモッグ注意報の赤い旗がなびく小学校の校庭。
教室に閉じこめられた生徒をよそに、ぼんやりと校庭に佇む「ショウリュウ」。
「ショウリュウ」に給食を運び、注意した先生に口答えして一緒に校外に出る「カネオ」。
そこから映画「新・仁義なき戦い」は始まります。

「ショウリュウ」とは栃野昌龍(洪昌龍)。
彼は在日韓国人/朝鮮人。
「カネオ」とは、門谷甲子男(かどやかねお)。
不良の「ショウリュウ」と「カネオ」は幼なじみで、30年後に再会します。
組幹部になっていた「カネオ」と、組織の外で自分を張って生きてきた「ショウリュウ」。
その男二人の葛藤と友情がストーリーの中心に据えられています。

「仁義なき戦い」は深作欣二監督によって1973年に公開され、シリーズとして全九作が作られました。
それまでの東映ヤクザ映画が様式美を基本にしていたのに対して、「仁義なき戦い」はドキュメンタリータッチを導入した新しいヤクザ映画として登場しました。
虚構としてのヤクザ映画から、ダイナミックな現実の中で展開されるヤクザ映画への転換といっていいと思います。
わたしもシリーズの何作かは観ていますが、今記憶にあるのは主役菅原文太の広島弁(広島が舞台であった)と、アクティブな群像劇の面白さです。
舞台を大阪に移し、巨大組織の跡目争いに絡む群像劇という約束事をベースに阪本順治監督は何を描こうとしたのでしょうか。


「カネオ」を演ずるのは豊川悦司です。
わたしが豊川悦司を知ったのは中原俊監督「12人の優しい日本人」です。
三谷幸喜が脚本を書いたこの秀作で、豊川悦司は異彩を放っていました。
その声と独特な暗さがわたしの記憶にしっかりと残りました。

豊川悦司は声の良い役者です。
低い声ではありませんが、良く透る声は耳に心地よく響きます。
舞台劇のように台詞の多い「12人の優しい日本人」の中で、最も台詞の多かったは豊川悦司です。
わたしにとって「12人の優しい日本人」とは、豊川悦司の声と彼自身の暗さが全てといっていいかもしれません。

いきなり結論を書いてしまえば、「新・仁義なき戦い」は豊川悦司の映画です。
豊川悦司を見るための映画です。
阪本順治は「どついたるねん」で赤井英和、「トカレフ」で大和武士、「顔」で藤山直美を主役に据えました。
役者の魅力を見せる、探り出す、そういった才能が阪本順治にはあります。
豊川悦司は「傷だらけの天使」に次ぐ阪本映画の主役ですが、彼の持ち味は圧倒的に「新・仁義なき戦い」が優っています。
関西弁を使う素の豊川悦司(大阪出身)がそこにいます。

「顔」で豊川悦司が演じた、ヤクザにもなれないカタギにもなれない中途半端な男を全面展開したのが「新・仁義なき戦い」です。
キャスティング的には「ショウリュウ」を演じた布袋寅泰も主役になります。
ポスターも豊川悦司と布袋寅泰のアップです。
しかし、この映画の魅力とは豊川悦司の魅力であり、布袋寅泰はそれを際立たせる役回りといえます。




豊川186cm,布袋189cm。
二人の身長です。
年齢は共に38才。
豊川悦司はその長身に長い腕、美しい手(指)があります。
見事なプロポーションです。
腰を折った時のシルエットもキレイな人です。

布袋寅泰も人を圧倒する長身で、しかも様になる体形の人ですが、残念ながら身体に年齢が出始めています。
ギターを弾きまくる動きのあるステージでは未だに充分魅力的な身体だとは思いますが、映画ではそれが幾分「貫録」となってしまっています。
布袋寅泰も声の良い人です。
「SF サムライ フィクション」で彼の声を初めて聞いたのですが、若干低めの太い声で独特の魅力があります。
(ついでにいえば、「新・仁義なき戦い」は声の良い人が多く出ています。豊川、布袋、岸部一徳、哀川翔、佐川満男。)
音楽も「SF サムライ フィクション」に引き続き担当しています。
彼のロックが違和感なくヤクザ映画に溶け込んでいるのは見事な仕事といえます。
演技も「SF サムライ フィクション」に比べれば大幅に進歩しています。

豊川悦司と布袋寅泰が三十年後に再会し、言葉を交わすシーンがあります。
その直前の「事件」によって生き方の違いがはっきりした二人が怒鳴り合うシーンです。
声と声との激しいぶつかり合いに二人の愛憎が滲み出ます。
布袋「何でヤクザになったんじゃー!」。
豊川「何でがわかってヤクザになるヤクザがおるんかー!」

じぶんが何でヤクザになったかわからない「カネオ」。
多分「カネオ」はじぶんが喪失した何かを追い求めいたらヤクザになっていた、とわたしは考えます。
その喪失とは「ショウリュウ」との「関係」であり、それは「カネオ」の一番大切なものだったのです。
喪失が「カネオ」に影をつくり、その暗さが「カネオ」の魅力であり、豊川悦司の魅力でもあります。

豊川悦司は暗さを持った役者です。
暗さは人を暗澹たる気持ちにもさせますが、人を魅了もします。
「関係」の欠如が優しさとなって表れるとき、それは人を魅きつけます。
暗さに「クールな熱さ」とも言うべき表情が見えたとき、そこに人は引き込まれます。
豊川悦司の暗さとはそういった暗さであり、その容姿と声がそれを体現しています。
「新・仁義なき戦い」が豊川悦司の映画であるのは、その暗さが何よりも鮮やかに表現されているからです。
映画全体の出来がそれと拮抗できなかったのは残念ですが、ひとりの役者の魅力がここまで発揮されていれば文句をいう筋合いでもありません。
何せ、わたしは既にこの映画を三回もビデオで観ているのですから。

遅くなりましたがストーリーを簡単に紹介します。

真っ黒い煙を吐くコンビナートがいつも目の前にあった。
幼い頃から西大阪の貧民街で育った少年ふたり。
甲子男と昌龍は11歳の時、ヤクザを一人殺していた。
実際に手を下したのは昌龍だった。
昌龍の貧しい父親が、借金の取り立てに来たヤクザに手ひどくいたぶられた、その仕返しだった。
そしてそれから30年。
門谷甲子男は、大暴力団・左橋組の傘下、粟野組の幹部になっていた。
折しもこの左橋組は三代目・松井和久が跡目を決めぬうち急死したため組内が大揺れに揺れていた。
ナンバー2の若頭・溝口は病気と老舗を理由に早々に辞退。
そのため三番手の若頭補佐・粟野に四代目の大役が舞い込む形式となった。
然し、若頭補佐の一人でクールな若手実力者、中平が密かに跡目を狙っている。
この中平の野望に早くも組みする若い幹部の動きもあった…。
(東映ビデオのHPからの転載)



跡目争いの顛末は金と力と根回しによる泥仕合であり、今やヤクザに限らず自民党や企業でもお馴染のものです。
この辺りのストーリー展開は「仁義なき戦い」シリーズを踏襲しています。
そこが阪本順治の映画を好きな人には物足りないところでもあります。
いっそ「仁義なき戦い」の看板を降ろして、新しいヤクザ映画として自由に撮った方が面白かったのかもしれません。

ここで、「カネオ」と登場人物との関係を整理してみます。
「カネオ」の直系の組長である粟野(岸部一徳)は、セコさと優柔不断を併せ持った嫌なやつです。
「カネオ」と粟野は父ー子の関係にあります。
ヤクザ社会は「家」をモデルに強固な疑似的血縁関係を基礎にしています。

「カネオ」が不運だったのは、彼が求めた「関係」は既にヤクザ社会にはなかったことです。
粟野と杯(さかずき)を交わしたのが不運だったのではなく、粟野以外の組長でも事情はたいして変わらなかったのです。
最も濃い「関係」で結ばれているはずのヤクザ社会ですら核心が空洞化していたのですから、カタギの社会は押して知るべしです。
そういった現実が露呈し始めたのが「仁義なき戦い」が製作されていた1972年の日本であり、光化学スモッグに覆われていた1972年の日本です。

「カネオ」と袖擦りあう関係が、遠山(大和武士)です。
遠山は跡目を画策する中平の兄弟分で、その中平の為に10年の懲役を務めました。
出所した遠山に待っていたのは中平の冷たい処遇です。
ヤクザは屑(クズ)ですから、その屑に捨てられた遠山は屑以下になってしまいます。
当然、遠山は薬に溺れ、自暴自棄になります。
「俺に一億くれたら誰でもトッてやる」、それが遠山の口癖です。

「カネオ」は遠山にじぶんを見ます。
「関係」を求めながら疎外されたじぶんを見ます。
映画のクライマックス直前「カネオ」に拳銃を渡すのは、遠山です。
何も言わないでも解る関係、つまりヤクザの仁義はここで辛うじて成立します。
逆に言えば、ここでしか成立しないのです。
涯でしか成立しない仁義の世界に飛び込んだ「カネオ」は、やっぱり不運でした。

「ショウリュウ」は在日です。
在日は在日の生き方を余儀なくされます。
「ショウリュウ」は寄り道をしながらも結局はそれを受け入れます。
誰にも頼らず生きて、同胞を助ける。
そういった生き方です。

「新・仁義なき戦い」のポスターを見た人は、布袋寅泰もヤクザ役に見えると思います。
わたしもそう思いました。
ポスターの押しの強い面構えからはどうしてもそう見えます。
ところが、布袋寅泰が演じるのはコリアン実業家栃野昌龍(洪昌龍)役です。
カタギの役です。
ヤクザとカタギの葛藤と友情をテーマにしたところが、従来の「仁義なき戦い」との大きな違いです。

「カネオ」にとって「ショウリュウ」は男(おとこ)です。
世の中に対する反発の姿勢が、その見ているものの大きさ、遠さが「カネオ」の憧れです。
反発するものも無い、男を起てる場所が無かった「カネオ」が「ショウリュウ」に憧れるのは当然の成り行きです。
少年が、自分よりちょっと大人の精神を持った少年に憧れるのはよくあることです。

「ショウリュウ」と「カネオ」がヤクザを殺すシーンは全ての伏線になっています。
「ショウリュウ」の両親を痛め、「ショウリュウ」の一家が夜逃げをする因(もと)を作ったヤクザを「カネオ」は殺そうとします。
詰めの甘さからヤクザの逆襲にあった「カネオ」は間一髪「ショウリュウ」に助けられます。
ヤクザの放った銃弾は「カネオ」の耳を掠め、ヤクザは「ショウリュウ」に後ろから刺されて命を落とします。
「中途半端なことするな!」、「ショウリュウ」に怒鳴られた「カネオ」には後遺症が残ります。
耳を掠めた銃弾が原因の「耳鳴り」が止まらなくなったのです。
「お母ん(おかん)が呼んどるぞ」、そう言って「ショウリュウ」は去っていきます。
夕闇に「カネオ」を呼ぶ母の声が聞こえます。



阪本順治がオープニングに1972年を設定したのは意味があります。
阪本順治は当時公害がひどかった大阪で少年時代を過ごしています。
映画で描かれていたような校庭で遊べなかった経験を持っています。
深作欣二の原点が戦後のヤミ市だとすれば、阪本順治の原点はそこにあるそうです。
その原点を映画の出発点に選びました。
「光化学スモッグで日本は終りや・・・」というオープニングでの「ショウリュウ」の台詞は、実際に阪本が友達に投げかけた言葉だそうです。

中平役で出演した、阪本順治とは年齢が二つ違いの佐藤浩市はインタビューでこう語っています。
「僕らは”もう日本はダメだ”と認識した最初の子供世代だと思う。そのときはまだ萌芽だったが、今はまさに花ひらいている。その絶望感がこの映画でどう描かれているか、僕個人としても興味が尽きない。」
少年であった阪本順治が、佐藤浩市が、「日本は終りだ、ダメだ」と思った1972年とはどういった時代だったのでしょうか。

グアム島で横井庄一を発見、連合赤軍の浅間山荘事件、日本赤軍のロッド空港乱射事件、佐藤首相の退陣と田中首相の誕生、沖縄返還、日中国交回復、藤純子の引退と松任谷由実のデビュー。

出来事を並べてみると、1972年がうっすらと浮かび上がります。
戦後が終った後の高度経済成長が一息つき、時代に抗する勢力が自壊し、東京オリンピック以降の政治を牽引した官僚総理が退き「日本列島改造論」が登場し、日本が経済大国への道を歩みだした年です。
ヤクザ映画の虚構の美学が、翌年の「仁義なき戦い」で時代を写す鏡に移行します。
(深作欣二が「仁義なき戦い」を撮影していたのは1972年です。)
反抗としてのフォークがニューミュージックに変化したのもこの年からです。

振り返ってみれば、この年はバブルの始まり(胎動期)にあたります。
価値の転換は徐々におきるものであり、特定の年に当て嵌めるのは無理があります。
無理を承知でその転換期を求めれば、恐らく1972年がその年になります。
翌年のオイルショックを乗り越えて、日本は「消費」という価値をその中心に据えたのです。

そして、「カネオ」の「耳鳴り」が始まったのも1972年です。
その「耳鳴り」は、バブルの巨大ディスコの大音響でかき消されましたが、今ははっきりと聞こえます。

「カネオ」に女はいたのでしょうか。
窮地に落とされた「カネオ」の暴走を心配して行き先を訊ねる兄弟分の松田に、「カネオ」は「女のところに行ってくる」と答えます。
女のところに行ったはずの「カネオ」は「耳鳴り」に悩ませれながらバーで酔い潰れていました。
「カネオ」に女はいないのです。
「消費」が価値となった時、女の役目は日本から消えたのです。
唯々「消費」する役目に女は貶められたのです。

「ショウリュウ」が止めを撃つことに失敗した「カネオ」に成り代わって中平を仕留めた直後、中平の子分のエリートヤクザに撃たれます。
「ショウリュウ」は絶命寸前「カネオ」に言います。
「やっぱりお前は中途半端やなぁ、お母んが呼んどるぞ」。

「お母ん」は、何を意味するのでしょうか。
それは、帰るべきところかもしれません。
「カネオ」が帰るべきところです。
映画のラストは、深手を負って死を覚悟した「カネオ」が団地の部屋を訊ねるシーンです。
そこには「お母ん」がいるのです。
しかし、このシーンは死ぬ間際に見た「カネオ」の幻想だと思います。
「カネオ」に還る「家」はないのです。

「カネオ」が意味するものがお解りでしょうか。
今回の研究は「新・仁義なき戦い」をご覧になっていないと何が何だか解らないかもしれません。
ジグソーパズルの様なテキストです。
でも、わたしが書いたことはご覧になった方には解ると思います。

最後もパズルです。
中田英寿が日本を捨てて、イチローも日本を捨てました。
中途半端な日本に飽き飽きしたからです。
阪本順治が「カネオ」に豊川悦司を選んだのは流石です。
「カネオ」を演じられるのは豊川悦司しかありません。
それが、阪本順治の美学です。

<第三十回終わり>




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