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iの研究


第二十八回 <旅>の研究


差出人:M.Fukuda <fuku-mac@×××.ne.jp> 宛先:nahoritan <N.Yokoya.15@××××ne.jp>
件名:展覧会テキスト「iの研究」。

>なるほど。
>コラボレーションですか。おもしろいのでタイトルを・・・・と思いながら、むつかしいですねぇ。
>一言で興味の有ることを言うのって。
>考えてました。
>たとえば、
>青春・・・すでに研究してましたっけ?
>海外旅行・・・行きたいです。
>宇宙・・・これも行きたいです。
>(人間の)欲、について・・・など。

横谷さん、こんにちは。
御返信有難うございます。
<宇宙>は研究しましたねぇ。
<青春>も「<GO>の研究」でちょっとやりました。
そうですねぇ、<海外旅行>でいきましょうか。

<iGallery's eye vol.3 横谷奈歩展>のテキストとなる「iの研究」のタイトルは、海外旅行からスタートして<旅>の研究をしたいと思います。
しかもかなり特異な,逃亡という<旅>を研究いたします。
横谷さんは映画がお好きですね。
映画の話を題材に考察してみたいと思います。



レクター博士という逃亡者がいます。
とっても怖い人ですが、映画「羊たちの沈黙」で注目を浴び、「ハンニバル」で主役になりました。
「ターミネーター」の悪役シュワルツネッガーが続編「T2」でブレイクしたように、「ハンニバル」は公開前から大変な話題でした。
遅ればせながら、わたしも「ハンニバル」を観てきました。

レクター博士は拘束の身から逃亡に成功し、アメリカを脱出して海外を旅しています。
ある時は南米で、ある時は南の島で姿を目撃されました。
逃亡者にとって、逃亡という旅とは逮捕されるまで永遠に続くものです。
逮捕されなければその土地に何十年住もうとそこは仮の住まいであり、旅の過程に過ぎないのです。
永遠に旅する者、それが逃亡者です。

「ハンニバル」はイタリアのフィレンツェで優雅に生活するレクター博士の物語です。
博学でダンディズムに富むレクター博士は悠々自適な生活を送っています。
しかし、博士の心の中には大きな闇があります。
誰も理解することが出来ない深い闇です。
その闇が博士を異常な犯行に駆り立て、その闇のために世界で一番孤独な存在になりました。
世界中の誰にも理解されない、それは孤独の極北です。

博士はその闇をつれて旅を続けます。
「品」というものを弁えた、一分の隙もない紳士であるレクター博士を羨ましく思うことはありません。
趣味と知識のエレガンスにため息をつく必要もありません。
その闇の実態の恐ろしさに比べればそんなことはどうでも良いことなのです。
レクター博士自身はきっとそう思っている、とわたしは想像します。

レクター博士は、FBIから逃れる旅を続けると同時に闇から逃れるための旅もしています。
それが不可能と分かっていても、レクター博士は闇から逃れようとしているはずです。
何故なら、レクター博士は怪物であっても「人間」だからです。
FBI特別捜査官クラリスも闇を抱えた女性です。
その闇を理解出来たのは唯一レクター博士であり、そのレクター博士を追うのが彼女の仕事でもあります。
そして、レクター博士の闇を理解できるかもしれない唯一の存在もクラリスです。
この錯綜した関係が物語の中心です。
この関係は恋愛とは違うのですが、かなり近いものであることも事実です。

レクター博士は、麻薬事件の顛末からバッシングの只中にいるクラリスの身を案じて一通の封書を送ります。
インターネットでメールを送るのではなく、ある種の危険を冒しても直筆の手紙を送ります。
レクター博士にとって電子メールは「品」のないものかもしれません。
映画で頻繁に登場する時代背景としてのインターネットに背を向けて,博士は手紙を送ります。
それが、博士の誠意であり、品性なのです。
(博士をもってすればコンピュータのスキルなど朝飯前でしょうから。)
そこから前作以来の「交流」が始まり、映画は核心へと進みます。



しかしながら、あえてこの映画は博士とクラリスの心の問題から離れています。
そういった視点はリドリー・スコットの資質ではなく、制作の意図でもありません。
あくまでもエンターテイメントに徹しており、具体的な恐怖を全面に出しています。
その辺が、物足りない映画です。
わたしには前作「羊たちの沈黙」(ジョナサン・デミ)の方が面白かったですね。
(原作(トマス・ハリス)の評価と映画の関係を考慮するともっと複雑になりそうです。「ハンニバル」の原作はまだ途中までしか読んでませんので、あえてここでは原作には触れません。ですから映画とは違うと言われているラストも今は当然知りません。)

ともあれ、レクター博士の旅は二重の意味での旅であり、旅とはそういったものかもしれません。
博士を追いかけるクラリスの旅も又同じです。
映画にはロードムービーというジャンルがあります。
この映画もある意味でロードムービーであり、旅が軸になった映画です。

異色ロードムービーという意味では阪本順治監督の「顔」も同じような映画です。
尼崎に住む女性(藤山直美)が母(渡辺美佐子)の葬儀の夜に妹(牧瀬里穂)を殺害し逃亡する映画です。
姉妹が幼い頃に父が失踪し、残された母がクリーニング店を切り盛りしながら二人を育て上げます。
主人公は婚期を逸した中年女性で、家業のクリーニング店の衣服修繕を仕事としています。
部屋に閉じこもり、一日中ミシンを踏みながら少女漫画とテレビの恋愛ドラマに耽っています。
自分をドジでマヌケでブスであると思い込んで、「引きこもっている」女性です。

妹は対照的に美人で外向的に行動する女性です。
ただし、真面目にコツコツというタイプではなく、面白おかしく生きたいタイプです。
その二人の折り合いは悪く、クッションとなっていた母の死で対立があからさまになります。
「昔からおねえちゃんが恥ずかしかった」という妹を殺害して主人公正子は逃亡の旅に出ます。
おりしも阪神大震災が数日後におきる1995年の冬です。

震災後、やっとの思いで大阪にたどり着いた正子は何気なく入った喫茶店である女性(内田春菊)と同席します。
京都で水商売をやっているという中年女性は簡単な身の上を語った後、正子に店で働かないかと持ちかけます。
断って席を立つ正子に、これも何かの縁だから勘定を支払わせてくれと伝票を奪います。
映画で後に明らかにされるその女性の正体は、一時ワイドショーを賑わせた「福田和子」その人です。
(映画では違う名前になっています。)

実は、この映画のストーリーの下敷きになっているのはその「福田和子」の逃亡記です。
「福田和子」は逮捕された後、自伝「涙の谷」著しています。
そこで明らかになったの逃亡の軌跡がこの映画のベースです。

「福田和子」は同僚のホステスを殺害した後、各地を転々と逃亡し、時効直前に逮捕されています。
逃亡中の整形や、はしゃいでカラオケに興ずる写真が不真面目な(?)犯罪者としてワイドショーで連日取り上げられました。
時効直前で逮捕されたという話題性もそれに拍車をかけました。
(逃亡者には逮捕以外に時効という旅の終焉もあります。しかし、時効が果たして旅の終りになるのか、それは解りません。)

わたしが「涙の谷」を読んだのは随分前のことです。
今、その本は手元にありません。
ですから記憶に頼って書いているのですが、生い立ちや被害者との関係は「顔」と違います。
逃亡ルートやそこで出会う人々も違います。
にもかかわらず、「顔」は「涙の谷」と明らかに同じ物語を奏でています。
逃亡者が中年女性であり、逃亡がその人にとって重大な転機であったという点において。



「福田和子」の生い立ちとは、いってみれば下層階層の生い立ちです。
一億総中流といわれた日本でも、歴然と階層はあります。
「涙の谷」を読んだ頃、たまたま永沢光雄のインタビュー集「AV女優」も読みました。
そこで語られた多くのAV女優の生い立ちは一様に凄まじいものでした。
彼女達の親や、下層の澱が溜まったような生活環境に関わる近親者は、恐ろしく自分勝手で、幼い彼女達の性を玩ぶ者さえいました。
「どいつも、こいつも・・・・」、インタビュアーの永沢光雄が思わず呟いてしまう言葉です、。
AV女優になることで暗い過去を断ち切り仕事に喜びを見いだした女性もいれば、単なる通過点として又流れていく女性もいます。

年齢的には彼女達より「福田和子」の方が上なのですが、その環境には共通点があります。
屈折した大人の影で覆われた、どんよりと暗く閉ざされた日常、そこで育つことを余儀なくされた子供達。
そんな環境で「福田和子」は育ちました。
一方、正子の自閉は、父親の失踪が切っ掛けとなったのか、あるいは失踪が自閉を推し進めたのかは映画では分かりません。
いずれにしても、正子は中年になるまで「外」には出ることのなかった女性です。

殺人という最も重い罪を犯して家を出たとき、その時から正子は逃亡という旅に出ます。
自らの闇を引き連れて。

正子は逃亡の発端でトラック運転手(中村勘九郎)に犯されます。
「自閉」していたときには、注意深く奥底に隠していただろう「性」がここで顕になります。
「福田和子」も逃亡先で売春婦に堕ちたとき自分の「性」を強く意識します。
「性」は人間にとって最も深い暗闇です。
その暗闇を自分の中に発見した正子はそれでも旅に出ます。
なぜなら、引き返す(引きこもる)ところは既にないからです。

正子はあてのない旅で多くの人と出会い、関係を結びます。
倒産寸前のラブホテルの経営者(岸部一徳)。
リストラされた、営業で全国を廻るサラリーマン(佐藤浩一)。
スナックの姉弟(大楠道代、豊川悦司)。
そのスナックの客(国村隼)。
そして、姫島の老婆と警察官。

世の中から落ちこぼれた、どこか影を持つ人々との交流は正子の「自閉」を徐々に崩していきます。
「自閉」では生まれることがなかった、「関係」がそこに生じつつあったからです。
人に頼り、頼られる。
人を愛し、愛される。
自分の存在が認められ、人の存在を認める。
そんな「関係」です。

自分の闇は、それを開示しない限り闇のままであり、他人の闇を認めることはそこに関わりを持つことです。
そのプロセスは辛くも有り、哀しくも有り、腹立たしくも有り、そして喜びでもあります。
そういった「人間関係」を正子は旅で作っていきます。
その関係が正子の「顔」を変えていく、それが映画「顔」です。
(「福田和子」の整形のポジフィルムになりますね。)



旅の過程で正子が拘(こだわ)ったことがあります。
それは、「自転車に乗れること」と「泳げること」です。
逃亡途中で自転車に乗れるようになった正子は泳ぐことに執着します。
そして、映画は姫島から泳いで逃亡しようとする正子のシーンで終わりを告げます。

「自転車に乗れること」と「泳げること」は、一人で遠くに行けることのメタファーです。
それは逃亡のスキルでもありますが、広い世の中で生きていくことのスキルでもあります。
旅のスキルでもあります。
正子はそのスキルを身に付けることで、盲目的に「自閉」と決別出来ると思ったのではないでしょうか。

阪本順治は「福田和子」の逃亡の旅から核心だけを抜き出して「顔」を作りました。
キャスティングも見事です。
(今回わざわざ俳優名を入れたのはそのためです。)
芸達者に囲まれて、妹役の牧瀬里穂が意外に光ります。
これは秀でた旅の映画であると思います。


さて、旅はよく人生に喩えられます。
人生が旅なら、逃亡も又旅です。
人生とは何かを追い求めていることであると同時に、何かから逃げていることのような気がします。
つまり、人生のある部分は逃亡かもしれません。
人は何から逃げているのでしょうか。

夢で逃げている自分に出会わない人は(多分)いません。
捕まりそうになって目が覚め、安心と恐怖がないまぜになった感情を味わった人もいると思います。
夢が象徴するものは何でしょうか。
わたし達が人生という旅で追いかけられているもの。

それは、「死」かもしれません。
いずれはわたし達を捕らえる「死」。
正子の「自閉」された世界は、無意識に現実の「死」が排除された空間です。
母の葬儀に顔を出さず二階の自室に閉じこもっていた正子は、それを恐れていたのです。
正子が逃亡先で関係した世界には、「死」が日常の一部として存在していました。
「死」と向き合うこと、向き合わざるを得ないこと、それが正子の旅でした。
逆説的にいえば、正子の旅は「死」からの逃亡をやめることでもありました。
それが、正子の逃亡という旅だったのです。



横谷さん、如何でしょうか?
この旅行は横谷さんの行きたい旅行ではないですよね。
でも、逃亡の旅も一般的な旅も重なる部分はあります。
その辺りを読み取っていただければ幸いです。

それにしても、ちょっと暗すぎたかな。
ま、面白い映画です。
ビデオも出てますから機会がありましたら見て下さい。

展覧会、楽しみにしています。
(仕事の都合で行けるのがちょっと遅くなりますが。)

 2001/5/8 ふくだ まさきよ

<第二十八回終わり>

今回の研究は、<iGallery's eye vol.3 横谷奈歩展>の為に書きました。
横谷さんからいただいたテーマをもとに研究いたしましが、実際の横谷さんの作品とは直接的な関係はありません。
一種のコラボレーションとお考え下さい。
展覧会は五月十日より二十九日まで経堂のギャルリー伝/Floor2で開催いたします。
御高覧よろしくお願いいたします。

展覧会案内


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