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iの研究


第二十二回 <独身者(ひとりもの)>の研究(1)


わたしには独身者の知人、友人が多い。
多くは、都市(都会)で一人暮らしをしている
独身者である。
地方在住の
独身者もいるが、親と同居している人しか知らない。
わたしの現在の主な居住地は地方都市であるが、地方には疎い。
長年の東京暮らしと、その土地に馴染もうとしない性質(たち)が交際範囲を狭めているからである。
だから、わたしが研究するのは専ら都市の
独身者のことになる。

わたしは既婚者である。
子供はいないが妻がいる。
しかしまともな家庭は営んでいない。
外れているのである。
(わたしが単身赴任状態であることは、外れている事と直接の関係はない。)
それは確信犯的な部分も含むが、身勝手で怠惰な部分も含む。
この事は後述したいと思う。

まともな既婚者でないことは、ある意味で
独身者に近いが決して独身者ではない。
精神の有り様が決定的に違うのである
だから逆に
独身者と仲が良いのかもしれない。
永く親しく付き合うには、似ている部分と違う部分のバランスが程(ほど)良いと上手くいくからである。




わたしは週1回は行きつけのバーに通っています。
そのバーの開店当時からの客ですから、かれこれ8年ぐらいになると思います。
わたしは、バーが似合わない男です。
まずもって、酒に弱い。
すぐに顔が赤くなります。
赤い顔をした男がバーのカウンターに座っている図は絵になりませんね、どう見たって。
それから、良く喋る。
(このバーは喋る人が多いので救われています。)
バーでは静かに気の利いたことを口する、それが理想ではないかと思います。
店主に「西荻理屈クラブ」の部長と命名されてしまったわたしは、だからバーが似合わない男です。

そのわたしが毎週バーに通う。
そこが居心地が良いからです。
そこの店主が、客が、店の佇まいが、適度に居心地良いのです。
客の多くは
独身者です。
地方出身、東京出身を問わず一人暮らしの
独身者です。
しかも、だんだん女性の
独身者が多くなっているようです。
これはバーとしては珍しい部類かもしれません。
とにかく一人で飲んでいる女性に出会うことはしょっちゅうです。



独身者にとって地元のバーとか喫茶店は必要なものの一つです。
(中には必要としない人もいますので、全てに当て嵌まるわけでは有りませんが。)
居住地に自分の存在証明を確保したいという欲求があるからです。
極端な話になりますが、アパートなりマンションで不意に死去した時は発見が遅れます。
異変に気が付く家族がいないわけですから、そのままになってしまう可能性が大きいわけです。
こういった事態はやはり避けたいものです。
その為には居住地に知己が必要になります。
簡単に言ってしまえば、自分のことを気にかけてくれる近所の知り合いがいたほうが良い、になります。
都会の借家、借室に暮す人の多くは独身、既婚を問わず近所付合いを余りしません。
地元の人もほっといてくれます。
近所付合いをしないにも関わらず存在証明を求める。
それは別に不思議なことではなくて、人とは普通そういうものなのです。

話をバーに戻します。
そのバーにはいらなくなった本のコーナーがあります。
読み終わっていらなくなった本や、贈呈されたが読む気がしない本が無造作に置かれています。
わたしは時々それをチェックして面白そうな本があると持ち帰ります。
去年の暮れに関川夏央「中年シングル生活」をゲットしました。
風呂で読むには丁度よい本だと思ったからです。
わたしは長湯ができません。
熱さに我慢できないので、湯冷めをしやすいことになります。
その対策として、風呂で雑誌や本を読みます。
この本は一話が短く、解りやすい文章で風呂で読むには最適でした。

関川夏央さんは、東京に住む自由業の
独身者です。
バツイチでもあります。
中年になった
独身者の日常、思考が幾分自己を戯画した形で書かれています。
文章の上手い人です。
こちらの肩の力を抜かせながら無駄のない文章を綴っています。
自由業(文筆業)というやや特殊な存在ながら、そこには普遍的とも思われる
独身者像が描かれています。

独身者の、自由といえば自由であるが、区切りがないといえば区切りのない生活。
自分を律することの難しさ。
そして孤独に襲われた時の辛さ、それらが短い一話一話で語られています。
中年の
独身者、これが何を意味するかというと、結婚の可能性が少ないということです。

適齢期というものがあります。
今だったら男女問わず30才ぐらいでしょうか。
それを過ぎると結婚の可能性はだんだん少なくなります。
独身のまま一生を終える可能性の方が高くなります。
中年の
独身者とは、それに自覚的になるということです。
一人で暮すことをことさら選んだわけではないが、それを自分の暮らし方として受け入れた人。
今回の研究で対象とするのはそういった
独身者です。
ですから、30才以前の
独身者独身者という名前に値しない予備群として扱います。
(現在では30才以上を中年とするには無理があると思います。感覚的には35才以上ぐらいでしょうか。ここでは、適齢期を過ぎても独身でいる人=
独身者とします。)



「中年シングル生活」には、不意を突かれた感がありました。
冒頭に書いたようにわたしの知人、友人には独身者が多い。
しかしながら、その知人、友人の心のある部分を知らなかった気がしました。
それは、わたしが他人に無頓着であることの証明でもあります。
もちろん、独身者が既婚者の心のある部分を知らないことだってあります。
だからといって、それがお相子(あいこ)で済むという問題ではないと思います。
これは微妙なところで区別、差別と絡むからです。

ここのところの説明は難しい。
結婚することが前提になっている社会で、独身者でいるということは外れています。
外れているが、その人が一生独身でいる確信もない。
(独身主義者、独身こそベストであるという信条の人、もいますが、そういう人に限って簡単に転向します。)
外れているということは、法律的にも観念的にも区別、差別されます。
それは、歴然としてあります。
だとしたら、その存在を知る(解る)ことも必要ではないかと思うのです。
社会のシステムを考察しようと思ったら、視点を中心からずらすことが肝要です。
それに、わたしが明日独身者になる可能性だってあるわけですから。
独身者と既婚者は入れ替え可能な存在なのですからね。

ここまでは一昨日書きました。
続きを書こうと思っていた昨日、わたしにちょっとしたアクシデントがおきました。
軽いぎっくり腰になってしまったのです。
1週間ほどで治ると言われた軽いものですが、当初普通に歩けないのには困りました。
這うような感じでないと移動できません。
しばらくして前傾姿勢でそろそろと歩けるようになりました。
わたしも今は一人暮らし状態ですからこうなると不便です。
自分のことが自分でままならない。
顔を洗うこと一つをとっても普段の数倍の時間が掛かります。

自分ことは自分でする。
これは簡単なようで実は難しい。
人に頼らず日常生活をおくる、唯それだけのことができない人(特に男)が多い。
そういう訓練を受けていないから、離婚して一人になると生活が目茶苦茶になってしまいます。
家事。
空気のような存在であった家事がここで大きく立ち現われます。

独身者(特に男)にとって家事は疎かにできないものです。
健康も家事に依拠する部分が大きいからです。
自己管理は、それが為されていようといまいと独身者は意識せざるを得ません。
自分のことは自分でする。
それが、独身者の生活の基本だからです。
だから、動けなくなった時を独身者は一番恐れるのです。

考えてみれば、自分のことは自分でする、は別に独身者だけの義務(?)ではないですね。
個人が単位になっている社会では当然のことですね。
家が単位になっていれば役割分担ができます。
しかし、日本国憲法では家ではなく個人がその基本になっているはずです。
社会の理念は個人の幸福に置かれているはずです。
だとしたら、自分ことは自分でする、はその前提になりますよね。

<第二十二回終わり>
<第二十三回に続く>




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