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iの研究


第二十回 <I T>の研究


世の中が便利になることは別に悪いことではない。
わたしも便利が嫌いではない。
(たとえ便利によって気が付かないうちに何かを失ったとしても。)
人は便利に弱いものである。
しかし、わたしが今欲しいものは「便利」ではない。
貴方が今欲しいものも「便利」ではない。
違いますか?

何の事かというと、
IT革命の事です。
IT革命、耳タコ状態ですね。
ITとは情報技術、又は情報通信技術の事です。
その技術を利用したのがIT革命です。
具体的に言えば、インターネットが生活の中心になるということです。
そのネットワークを通じてサービスの授受を行う、それがIT革命です。

IT革命の話題は経済、教育、文化、行政等々、生活のあらゆる分野に渡っています。
なかでもやはり経済、つまりはeコマース(電子商取引)が中心になっています。
話題の多くは、「生活が便利になる」についてです。
銀行の用事が自宅のパソコン、携帯電話で出来る。
外出先から冷蔵庫の中身を調べたり、風呂を沸かすことが出来る。
市役所に行かなくても住民票や謄本がプリントアウト出来る。
夲やCDも居ながらにして欲しいものが簡単に手に入ります。
確かに、「便利」です。

地方在住者にとってオンラインの本屋やCDショップは魅力的です。
わたしの山梨の住居の近くには気の利いた本屋やCDショップが無いのでそれは良く解ります。
でも、簡単に手に入るのは便利かもしれないが別に楽しくはありません。
生活が便利になっても、生活は楽しくはならない。
その昔、テレビが家庭に入った時、便利で楽しかった記憶があります。
今は違うのですね。
便利は便利だけで、全然楽しくない。
時代が変わったんですね。

もちろん、こう言った便利が切実な人もいます。
足が悪くて外出がままならない人は本当に便利です。
ただ、これは便利じゃなくて必要と言った方が適切でしょう。
しかし、IT革命は多くの人に便利を謳っています。
けっして必要な人の為のIT革命にはなっていないと思います。

IT革命は、流通の大幅な省略という事態も生みます。
インターネットによって生産者と消費者がダイレクトに結びつくわけですから、中間の卸売り、小売りが不要になります。
コストの大幅な削減です。
それはモノやサービスの価格が安くなる事に繋がりますから、消費者にとっても良い事ではあります。
しかし、不要になった中間の仕事に従事していた人はどうなるのでしょうか。
リストラですね、当然。
企業内部でもIT化による人員削減は進行しています。
インターネットによる熾烈な価格競争に敗れた企業の従業員も失業します。
さてこれらの人達の合計はどのくらいになるのでしょう。
わたしはこっちの方面には詳しくないので何とも言えませんが、心配になります。
半端な数ではないような気がします。
自分もその一人かもしれません。
これも、楽しくないですね。




インターネットは楽しくないものなのか。
そんな事はないと思います。
今の
IT革命が楽しくないだけです。

貴方がインターネットを想像できたのは何時だったでしょうか?
わたしは高校三年生の時です。
1967年頃です。
当時、カナダの社会学者マーシャル・マクルーハンが話題になりました。
「ラジオはホットなメディア、テレビはクールなメディア」。
この言葉に聞き覚えのある人もいると思います。
マクルーハンはメディアの伝える内容よりもメディア自体の特性に注目した人です。
たしか、「これがマクルーハンだ!」といった夲を購入して読みました。
著者はまだテレビに出演していなかった無名の竹村健一。
今考えるとタイトルも笑えますが、竹村健一の夲を買ったわたしも若かったんですね。

竹村健一のハッタリだらけの紹介本にもかかわらず、マクルーハンの夢想はわたしにも伝わりました。
マクルーハンは電脳地球村を夢想していました。
電脳地球村はインターネットですね。
国境を超えた電子のネットワーク、真にインターネットです。
そこでマクルーハンが夢想したのはコミュニケーションの在り方だったと思います。
そのシステムに、より良いコミュニケーションの在り方を託しました。

ここでちょっとネットワークについて考えてみます。
わたしがiMacを買おうと思った時、ネックが一つありました。
データの移動です。
それまで使っていたMacのデータをiMacに移さなければなりません。
仕事のファイルやメールの記録、遊びで作った画像なんかがありましたから。
iMacにはフロッピーディスクドライブが付いていないし、当時USBのMOは高価でした。
夲を読んでいたら、ネットワークを組んでデータを交換する方法が出ていました。
初心者のわたしにも簡単に出来ると書いてありましたので、それを実行いたしました。

Ethernetによるネットワークでしたが、実に簡単でした。
ケーブルで二台のパソコンを繋いで設定するだけ。
これでファイル(データ)の共有が可能になります。
プリンタも共有できます。
ネットワークは「共有」という事が可能になります。
(共有の制限も設定できます。)
「共有」、言葉ではちょっと難しいかもしれませんが、実際にやって見るとそれがどういったものか良く解ります。
ネットワークの特質に「共有」があります。
これは結構重要な特質だと思います。


共有が過激な形で展開されている、そんな記事がパソコン雑誌に載っていました。
華やかな新製品のレビューの間にあった小さなコラムです。
Napster(ナップスター)、Gnutella(グヌテラ)、御存知でしょうか?
このコラムによると、すでに業界では話題になっているそうです。
知ってる人は知っていると思います。
わたしもNapster関連の記事は新聞の経済欄で見たことがあります。

この二つは「違法音楽ファイル」の交換ツールとでも言うべきものです。
記事を紹介します。
Napsterは、同ソフトを起動すると自分のHDにあるMP3ファイル(圧縮された音楽ファイル)をリスト化して自動的にNapsterのサーバーに登録します。
多数のユーザーが同じ事をするとサーバーに巨大なデータベースが出来ます。
そこからユーザーは好きな楽曲をダウンロードするわけです。
単純計算ですが、仮に1人10曲登録して1万人いれば10万曲がダウンロード可能になりますね。
そういうシステム(ツール)です。

Napsterは、わたしの知人Kくんもユーザーです。
彼はわたしと同じ地方在住者で、クルマで音楽を聴く機会が多いという共通項があります。
それで、わたしのリクエストに応えてNapsterでダウンロードしたMP3ファイルをCDに焼いてくれました。
音質は問題ありません。
(付け加えれば、Kくんの選曲のセンスも予想どうりGoodでした。)
Napsterの利用者は月に500万人あるそうです。

Gnutellaはさらに過激で、サーバーを必要とせず各自のHDを直に繋いでデータベースを構築するソフトだそうです。
そういうソフトがいつの間にか出来て流通している、これにはちょっと驚きました。
この二つのソフトは、私有の概念を「私のモノは貴方のモノ、貴方のモノは私のモノ」という形で覆しています。
これが合法であるか、違法であるかはさておき、形態としては共有です。
(現行法では必ずしも違法とは言い切れないようです。)
ネットワークだからこそ可能になる「共有」です。

Napster,Gnutellaがどういう目的で作られたか、わたしは知りません。
その将来にもあまり関心がありません。
すでにNapsterはBMGミュージックの親会社に支配権を渡したようです。
単なる有料会員制の音楽配信サイトになってしまうのかもしれません。
しかしここで試みられた「共有」には興味があります。

ネットワークを使って、パソコンの空いている(使っていない)時間を膨大で複雑な計算に使うという事も行なわれています。
各自のパソコンにソフトを入れておくと、空いている時間に自動的にデータの処理が実行されます。
その処理の集積はスーパーコンピュータより速いそうです。
学術的計算をボランティアで参加する場合と、依頼した企業からギャラが支払われる場合があるそうです。
これも「共有」といえます。

Linuxを始めとするオープンソースの流れも共有です。
オルタナティブな分野では共有は静かに進行しています。
しかし
IT革命の話題ではeコマースの陰に隠れて一般には知られる事が少ないようです。
しかも、まだまだ特定の技術を必要とする分野に限られています。



共有とはどういったことでしょうか。
複数の人が一つの物質的、精神的、あるいは両者が交じり合ったものを所有しあう事だとおもいます。
共有は、人間にとって必要なものです。
人は一人で生きていけないからです。
何かを共有することによって生き延びてきました。
過去の歴史を見ると、人間には必ずネットワークがありました。
地域があり、血縁があり、家族がありました。
ルールに従わないと、村八分というネットワーク外しもありました。
良きに付け悪しきに付け、それはありました。
ネットワークの中に共有があるのです。
今でもそれはあるとは思いますが、物凄く希薄になっています。

希薄になった原因は何でしょうか。
それは、近代だと思います。
個人の自由を最も尊重した近代です。
自由の基盤には責任や義務もあります。
しかし、近代は基盤を置き去りにして個人の自由を加速させました。
近代の理想と現実が違ったわけです。
それは、わたし達の選択でもあったと思います。
わたし達は自由、もっと言ってしまえば孤独を選択したのだと思います。
それの方が楽しかったから。

誰の所為でも無いんですね。
孤独になったのは。
わたし達が選んだのです。
与えられた近代であっても、選んだのはわたし達です。
わたしは、そう思います。

楽しい事は残念ながら長続きしない。
でも、楽しい事がなかったら生きていく価値がない。
それで、みんな一生懸命楽しい事を探しています。
それにはネットワークが必要になる。
矛盾するようですが、実はそれが現実だと思います。
拘束されたくないけど、コミュニケーションしたい。
その折り合う地点をどこに見つけるか。
孤独を選択したわたし達の宿題です。

インターネットは誰が作ったのでしょうか。
最初は、軍事的、学術的な目的があったようです。
それが、いろんな思惑が重なっていつの間にかネットワークが形成されてしまったようです。
別に誰が作ったというわけではありません。

ネットワークがある以上、そこに共有がなければ存続しません。
過去の歴史がそれを物語っています。
そこに既に飽きだした「便利」を持ってきても続かないと思います。
形だけの双方向性は意味がありません。

共有が必ずしも楽しいとは限りませんが、多分わたし達が必要としているのは楽しい共有です。
「便利」よりも「楽しい」が必要なんですから。
違いますか?
「便利」が加速するより、少なくとも「楽しい」をビジネスのテーマにした方が新しいネットワークののeコマースだと思うのですが。
「楽しい」をカン違いされても困りますが。
そこは発想を全く変えないと駄目な所でもあります。
ネットワークが変わったのですから。

表現というのも根本は共有です。
これは言うまでもないですね。
共有されない表現は表現になりえないのです。
今の表現には著作権(知的所有権)が付きまといます。
これが、インターネットになるとその意味合いはより重要性を帯びてきます。
共有と知的所有権の問題は改めて研究したいと思います。
知的所有権そのものの考え方を変えないと共有とリンクしないのではないかと思っているからです。

「共有」について、わたしの考えは多分に空想的、夢想的です。
まだ実体のないところで話をしています。
でも、不特定多数が携帯やパソコンを使って無自覚に朧げなネットワークを作ろうとしている意志は感じます。
それが実体を結ぶかどうかは、それはもちろんわたし達の問題ですね。

<第二十回終わり>




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