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iの研究


第十七回 <移動>の研究


ウェブページを移動しました。
と言う訳でもないのですが、今回は
移動を研究します。
わたしは東京、山梨を毎週
移動しています。
週五日山梨、週二日東京が基本になっています。
ま、特殊な生活サイクルだと思いますが、それほど負担にはなっていません。
移動がなかなか楽しいからです。
ドライブしながら好きな音楽を聴いたり、物思いにふけったりしています。
ただし、交通費がかかるのが玉に瑕です。
五万円のハイカを一ヶ月半で使い切ってしまうのですから。
わたしの生活でお金がかかるのは住居費と交通費、そして飲み代です、多分。

移動の手段は、歩く、自転車、バイク、クルマ、バス、電車、飛行機、船等いろいろ有ります。
日常的なのは歩く、自転車、クルマ、電車ぐらいでしょうか。
バスはマイナーな
移動になってしまいました。
一昔前ならイナカではバスは重要な
移動の手段でしたが。

非日常の
移動は旅ですね。
わたし個人のことを言わせて貰えれば、遠足、修学旅行が異常に好きでした。
遠足、修学旅行の前夜は眠れなくて困りました。
嬉しくて興奮してしまうのです。
高校の修学旅行の前夜なんか睡眠薬まで服用したのですが全然眠れずそのまま出発した記憶があります。
遠足、修学旅行は知らないところに行く楽しみもありましたが、その過程の
移動が楽しかったですね。
電車やバス、船に乗っているのがとても楽しかった。
あの
移動の楽しみは今のわたしにはもう無いですね、残念ながら。
それは多分、日常と非日常の区別が段々無くなってきたせいだと思います。

さて、日常の
移動は学校や仕事に行ったり、人に会ったり、買い物をしたりする為にします。
移動とはA地点からB地点に行くことです。
日常の
移動とは目的ではなくて手段になります。
人が一生のうちに
移動に費やす時間は膨大なものだと思います。
人は、その
移動を快適にしたり有意義に過ごす為ににいろんな事を考えます。
読書したり、音楽を聴いたり、メールを打ったり、仕事をしたり、それぞれです。
でも、わたしは
移動には重要な要素があるのではないかと考えました。
そこを考察してみます。



わたしが山梨に住居を
移動したのは6年前です。
それ以前の27年間はほぼ東京に居ました。
それで山梨の住居に移動したばかりの頃、夕方近所を買い物で歩いていてふと周りを見ると歩いている人が殆どいません。
歩いているのはわたしだけ。
自転車に乗っているのがイラン人の方々。
あとはぜ〜んぶクルマ。
わたしとイラン人だけが素通しで外界に接しているのは、何となく可笑しい光景でした。
わたしとイラン人、うーん、納得できます。
わたしはそういう人なのでしょう、きっと。

イナカでは
移動の手段はクルマです。
そのクルマも一家に一台ではなくて、一人に一台です。
そうでないと仕事や生活に支障をきたすからです。
バスがあてにならないのでどこに行くにもクルマです。
極端な話、歩いて5分ぐらいの用事でもクルマで行ってしまいます。
イナカでのクルマとはそうっいったモノです。
ゲタ代わりと言う言葉がありますが、真にその通りです。

さて、クルマでの
移動は冒頭に書いたように結構快適ではあります。
公共交通機関の利用と違い時間に縛られません。
何時でも好きな時間に
移動を開始できます。
そして、
移動中は好きな音楽を聴いたり、ラジオのトークを楽しんだり、ケータイで話をしたりできます。
なにより、他人が側(そば)にいないので気兼ねがいりません。
常にクルマで
移動していると楽しさはなくなってくるのですが、クルマの中のプライヴェートは一度味わうとクセになる種類のものです。
クルマとはプライヴェートで満たされたカプセルの事です。

わたしは大学時代、社会学を専攻しました。
(専攻しただけでほとんど勉強はしませんでしたが。)
ゼミでは中野収先生の研究室に在籍していました。
中野先生の持論に「カプセル人間」というのがありました。
近代的な個人ではなくて、その内側にある「私」がカプセルを纏(まと)って
移動する。
それが先生の捉えた「カプセル人間」でした。
今考えてみると、実に未来を予見した論でした。
クルマで
移動するイナカの人々は真に「カプセル人間」です。





東京で生活していると電車(JR,私鉄、地下鉄)が
移動の主たる手段になります。
それだけ電車網が都内を網羅しています。
クルマで行くより速いし、維持費を考えればずっとクルマより割安になります。
東京都内では駐車場代もバカになりません。
それで多くの人が電車を日常的に利用しています。
この、電車に乗ることを、楽しいと思っている人は少ないと思います。
殺人的通勤ラッシュは例外にしても、見ず知らずの他人と狭い車内に閉じ込められるのは快適とは言いがたいでしょう。
そこで快適に過ごすための工夫を皆さんする訳です。
読書、ウォークマン、メール等々ですね。
知人、友人と一緒なら会話で時間を潰しますね。

一見似ているようなクルマと電車での快適な過ごし方ですが、大きな違いがあります。
クルマはプライヴェートな空間ですが、電車はソシアル(社会的)な空間です。
ですから他人のことを考えて快適に過ごす、がルールになります。
クルマの外には道路交通法というルールはありますが、基本的に内側にはありません。
(飲酒とか居眠りは問題外ですね。)

ここで見方を変えて、情報という面でクルマと電車を考えてみます。
クルマを運転していると当然道路情報を把握しなければなりません。
前のクルマとか信号とか道順とか、いろいろありますね。
しかし運転に慣れてくるとその情報だけでは退屈してしまいます。
窓越しの情報はどこか曖昧でもあります。
エアコンをかけて音楽やラジオを聴いていると視覚だけで外部の情報を捉えることになりますが、それで大抵は事足ります。
そうなると、後は自分の選択した情報だけを摂取することになります。

一方、電車の乗客は否応なく閉じ込められた車内で自分の持ち込んだ情報以外の情報を摂取します。
他人という情報です。
ファッションやヘアメイク、鞄や小物、体臭、話し声、態度、会話その他人が持っている情報をボンヤリとしながらも摂取します。
(これは他人という情報ではありませんが、中吊り広告が情報源として効果があるのは有名ですね。
ついつい読んでしまう週刊誌の中吊り、これは誰でも経験がお有りでしょう。)

これら自分が選択するつもりもなくついつい摂取してしまう情報。
わたしはこれを重要なモノと考えます。
自分が知りたい情報、自分が興味ある情報も大切ですが、他人というモノが何であるかを知ることも大切だからです。
そして、他人をメディアという加工、変換された情報で得るだけでは駄目で、生(なま)の他人の情報がなければ他人というモノが解らないと思うからです。
人は、他人というものがいないと生きていられない生物だからです。
移動は、実はその他人の生の情報が得られる貴重な機会かも知れないのです。
ロードムービーはそういった
移動の映画ですね。




わたしは東京にいる時でもついクルマで
移動してしまいます。
わたしがイナカ者だからです。
そして、その方が時間がかかろうと楽だからです。
何故なら、他人を気にしなくて良いし、他人と会わなくても済むからです。
「今日は人と会いたくない、だけど外出しなければならない」、そんな時がありますね。
そういった時、クルマに乗ってしまいます。
これは、クルマの中への「引きこもり」ではないでしょうか。
自閉されたクルマの中への「引きこもり」。

クルマの中の快楽はこういった危険性を含んでいるとわたしは思います。
わたしは最近、自転車の
移動を好んでます。
自転車は体力維持の為に乗り始めたのですが、自転車で行ける距離は出来るだけ自転車で行くようにしています。
その方が楽しいからです。
情報が新鮮だからです。
イナカにはまだ自然が残っています。
わたしは自然とは程遠い人間ですが、直に自然を観る楽しみはまだ知っています。
昔の人間は
移動する時に自然から情報を得てそれを生活に役立てていた気がします。
わたしの自転車での楽しみは単なる娯楽ですが、クルマに乗っている時には感じられなかったものです。
街の情報もクルマで得るものとは違った楽しさがあります。
スピードが違いますし、気になったら直ぐに引き返せます。
そして、普段自分がクルマでどういう生活をしているかが解ります。
何故なら、イナカでは自転車はアウトサイダーであり、視点が全く違うからです。

情報絡みの話題で言えば、IT革命があります。
本屋に行けばIT関連の本が山積みですね。
ITの大きな特徴に
移動の省略があります。
正確に言えば、人間の
移動から電子の移動への移行です。
銀行に行かなくても、パソコンやケータイで事足りる。
買い物もしかり、人と会うのもしかり。
それでSOHOという勤務形態も可能になります。

必要に迫られた人間の
移動が無くなり、自分の好きな時に好きなスタイルで移動する事になったら、人は幸せになるでしょうか。
わたしは疑問に思います。
そこには大切な他人の情報が抜け落ちているからです。
社会の情報とは他人に関する情報の事です。
他人の情報とは、他人の生活に関する情報です。
その他人の生活に接する機会が、実は
移動の中に少なからずある様な気がします。




クルマでの
移動が主流になったイナカは、他人の情報を得る機会を少なからず失ったのではないかとわたしは思いました。
家や共同体が崩壊しつつあるのは都市も地方(イナカ)も同じです。
これは言葉を換えて言えば、他人の情報を得るのが難しくなったという事です。
自己を確立して他人と積極的に情報交換をする。
これが近代の建前です。
インターネットに希望があるのはそれが可能だからです。
しかし、生の他人の情報も必要です。
他人というのは生(なま)な部分を必ず持っているからです。

嘗(かつ)てはイナカは安全、都会は危険という図式がありました。
今はそうとも言えないと思います。
最近の不可解な事件はイナカでおきています。

九州で起きたバスジャックは記憶に新しい事件です。
あれはバスという公共交通機関でおこった事件です。
本来なら他人の情報が得られる車内で、少年は他人の情報に全く無頓着でした。
バスの中にあったのは少年の「私」だけでした。
そして、少年は過去の楽しいクルマでの
移動を追体験したくて進路を変えさせたのでした。

話を
移動します。
散歩も
移動です。
わたしは散歩が好きです。
この
移動は手段でもありますが目的でもあります。
散歩とは日常でありながら、日常では摂取できない情報を得ようとする行為かもしれません。
見方を変えてモノを見る。
そんな楽しみです。
これは現代美術と似てますね。

最後です。
昨日女子マラソンがありました。
42.195キロを
移動するのがマラソンです。
さて、この
移動とはどういった移動なのでしょうか?
考えてみて下さいね。


<第十七回終わり>




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