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iの研究


第十六回 <恋>の研究



<恋>に落ちると、人は何故あんなに嬉しくなったり悲しくなったりするのでしょうか。
もしこの世に
<恋>がなかったら、世界は何とつまらないものなんでしょう。
<恋>は人に至上の喜びをもたらしますが、深くて辛い傷をも与えます。
それでも人は
<恋>に焦がれ、<恋>の夢を見ます。
<恋>から遠ざかっているとちょっぴり淋しい気持ちにもなります。
そんな
<恋>の正体は一体何なんでしょうか?

<恋>を辞書で引くと、
@異性に強く魅かれ、会いたい、ひとりじめにしたい、一緒になりたいと思う気持ち。
、と出ています。
異性に限定するのは間違いですね。
同性でも良いはずです。
わたしは「iの研究」の第一回で<愛>の研究をしました。
<恋>と<愛>の違いは、日頃の使用習慣でお分かりと思います。
<恋>は概ね<愛>に含まれます。
<愛>の方が、その対象が広く使われています。
このへんは厳密な定義をするより、ニュアンスで使い分ければ良いのではないかと思っています。

誰しも
<恋>をした事がありますし、それにたいする強い関心も持っています。
歌というものが誕生してから今日まで、
<恋>はそれこそ星の数ほど歌われてきました。
それほど、人というのは
<恋>の心模様に魅かれるのですね。
多分、死ぬ直前まで人は
<恋>を忘れないと思います。

歌ばかりではなくて、小説や映画、芝居等で
<恋>はそのテーマとなっています。
人それぞれに心に残った
<恋>の歌や、小説、映画、芝居があると思います。
そしてそれは、その人の心の底に何時もあって、時々それにアクセスするのではないでしょうか。
わたしにもそれはあります。
今ぱっと浮かんだ
<恋>の映画は、「恋しくて」。
アメリカの青春映画の巨匠、ジョン・ヒューズの制作した映画です。
片思いの切なさを描いた佳作です。
別に映画として飛び切り出来が良くなくても、心に残る作品ってありますよね。
そんな映画です。
芝居では「近松心中物語」。
ここではこの芝居を軸に
<恋>の考察をしてみたいと思います。

わたしは、
<恋>の放つエネルギーの凄さを現前で見ました。
と言うのは大袈裟かもしれませんが、
<恋>とはこういうものなんだと思った事は確かです。
それは女優太知喜和子がまだ生きていた時です。
私が観た「近松心中物語」は初演のキャストによるものでした。
主演の梅川を演じていたのは太知喜和子でした。
太知喜和子は伊豆の海に車ごと転落して命を落としました。
太知喜和子は、女優以外の何者でもない女優でした。
あの人の生い立ちは特異なものであったそうです。
その特異さが彼女を並の女優に止めなかった気がします。
その人がそこに立っただけで舞台が何倍にも輝く事があります。
太知喜和子はそんな女優でした。
海に落ちて死んでしまったのは、何となくあの人らしい最後でした。



太知喜和子、平幹二朗 主演、作 秋元松代、演出 蜷川幸雄、「近松心中物語」。

舞台は江戸時代大阪、飛脚屋亀谷の忠兵衛は真面目一筋に仕事に励む男。
その忠兵衛があるきっかけから廓に足を踏み入れる。
そこで遊女梅川と巡り合い、二人はその瞬間に
<恋>に落ちる。
忠兵衛は物の怪につかれたように梅川の後を追う。
梅川に身請けの話が出ると忠兵衛は窮地追い込まれるが、友人の与兵衛から50両を借り身請けの手付けとして支払う。
しかし、すぐに身請けをする大尽から300両の身請け金が届けられる。
後に引けぬ忠兵衛は胴巻きにあった御用金に手を付ける。
科人となった忠兵衛と梅川は冬の山に逃げ込む。
吹雪く谷間で、二人は雪を鮮血に染めて心中する。


心中への道中、いわゆる道行きの最初から死まで雪が降り続けます。
もちろん芝居ですから紙の雪です。
が、その量たるや4トントラック25台分!
しかも紙は岐阜に特注したもの。
舞台に雪が本当に積もります。
この過剰さとこだわりが蜷川幸雄らしいですね。
蜷川幸雄はアングラの人でしたが、商業演劇に転身してから真価を発揮した人だと思います。
人は芝居に夢を求めてくる、お金を払って観てくれる以上自分の芝居はきっちり夢を見させる。
それが蜷川幸雄の信条であり、その代表的作が「近松心中物語」です。
「近松心中物物語」は
<恋>の夢です。

梅川と忠兵衛の
<恋>は唐突に始まります。
会った瞬間に二人は
<恋>に落ちます。
観客には何の説明もありません。
これは
<恋>の理想のカタチですね。
「私」と「貴方」が結ばれるのは必然で、そこに何の理由もいらない。
運命の必然、例の赤い糸です。
誰もが夢見る
<恋>です。
その
<恋>は、舞台の進行と共に説得力を持っていきます。
絵空事ではなくてリアリティを獲得します。
これは芝居(演劇)のマジックとも言うべきもので、いつの間にか観客は納得してしまいます。
演出の妙なんでしょうね。

さて、
<恋>とはトランス状態のことです。
わたしはそう思います。
日常/現実からのジャンプ、それがトランスです。
<恋>は盲目、という言葉があります。
現実が全く見えなくなる状態ですね。
これはトランスだと思います。

トランスは宗教の儀式でよくおこなわれます。
多くは薬物の使用を伴います。
薬物の力を借りて、現実の背後にあるもう一つの現実に触れます。
もう一つの現実とは真の現実(通常の現実を司る原理)のことです。
この世の中の仕組みに直に対面すること、とでも言っていいでしょうか。
その真偽はともかく、宗教のトランスはそういった儀式です。



<恋>に落ちると現実がいつもと違って見える経験は誰もが持っているのではないでしょうか。
不思議な体験ですね。
世界が違って観える、自分が今までの自分でないような、状態になります。
これはやはりトランスではないかと思います。

わたしは、
<恋>におけるトランス状態は自我の溶解ではないかと思います。
自我とは「私」のことです。
自分が自分である元です。
精神と肉体を統括しているのが自我です。
自我そのものの定義を厳格にやり始めますと話がややこしくなりますので、ここでは一般認識としての自我で話を進めます。
ご了承下さい。

<恋>に落ちるという事は、相手と一体になりたいと思う事です。
身も心も一体になりたい、それが
<恋>ですね。
身はともかく、心が一体になりたいとはどういう事でしょうか。
「私」と「貴方」の境をなくしたいという事です。
「私」が「貴方」であり、「貴方」が「私」である状態になりたい。
「貴方」の喜びや悲しみや痛みを「私」のものとし、「私」の喜びや悲しみや痛みを「貴方」に感じて欲しい。
そいういう事ですね。
その為には「私」を形成してきた世界と、「貴方」を形成してきた世界との交流が必要になります。
自我とは世界によって形成されるものですから。

「私」の全てを知ってもらいたい、「貴方」の全てを知りたい。
そこから「私」と「貴方」の境は徐々になくなっていきます。
自我が異物と融合しようとする時、人はトランス状態に陥ります。
薬物によるトランスも自我の揺れに原因があります。
宗教の多くは自我を扱っていますからトランス状態に導くために薬物を利用します。
「私」と「貴方」の自我が溶解して一緒になる時、トランス状態がおきます。
恐怖でもあり、快楽でもある非常にテンションの高い状態です。

自我を人に晒すのは勇気がいりますよね。
一番の秘密も明らかにしなければならないからです。
「私」と「貴方」の自我が溶解しあっていく過程が<恋>だと思います。
もちろんそこには身体も含まれます。
それは多くの人にとって秘密ですから。



話を「近松心中物語」に戻します。
梅川と忠兵衛の<恋>は自我の溶解が完全なカタチでおきます。
究極の<恋>と言っていいでしょう。
二人は一心同体です。
「私」と「貴方」の区別がなくなってしまいます。
もちろん、これはフィクションです。
夢を具現化しただけで現実にはありえない事です。

二人が来世を信じて死に赴いたのかどうかは、わたしには判りません。
唯、二人にとって死は恐ろしものではなくなっています。
二人は手に手をとりあって、喜んでいるかのように死を迎えます。
何故なら、二人の自我は完全に融合しているからです。
死の恐怖とは、自我の消滅です。
「私」がいなくなってしまう事への恐怖です。
少なくともわたしはそうです。
でも、二人には自我がありません。
融合した自我はすでに自我とは呼べない何者かになっているからです。
それを何と呼んでいいのか。
わたしには良く解りませんが、ある境地ではないかと思います。
仏教でいえば「悟り」とか、そう言った境地に近いと思います。

でもこれはあくまでフィクションです。
蜷川幸雄はそれを芝居の中に折り込んでいます。
忠兵衛の友人、50両を貸した与兵衛と妻のお亀、この二人は「私たち」です。
フィクションではない、現実の「私たち」の代表です。
与兵衛は婿養子のダメ男で、あの50両も店の金の無断借用です。
その件で行方不明となりますが、ある晩お亀に詫びを入れに戻り、そのままお亀の先導で道行きとなります。
しかしながら心中に失敗して与兵衛だけが生き残ります。
芝居でこの二人は喜劇的に扱われます。
現実の「私たち」の<恋>が、端から見ると滑稽だったり、無様(ぶざま)だったりする様に。
現実の<恋>は梅川と忠兵衛の様にはいきません。
現実の<恋>はみっともないけど、それはそれで人の心を打ちます。

「近松心中物語」は夢と現実を交錯させながら<恋>の物語を進行させます。
それにしたがい観客も徐々にトランス状態に入っていきます。
森進一の歌う挿入歌が梅川と忠兵衛の登場場面に流れます。
<恋>の哀しさと美しさを体現した二人の背後にその歌が流れます。
それが何回か続くと、観客は森進一の歌が流れだした途端涙腺を緩ませます。
劇場内の湿度がみるみるうちに上がっていきます。
舞台と客席がシンクロして、あの雪の場面でトランス状態が最高潮に達します。
<恋>のエネルギーで金縛りにあう観客。
二人の死から一転して、舞台は賑やかな町角に立つ諸国巡礼姿の与兵衛。
観客を現実に引き戻して「近松心中物語」は幕を下ろします。



<恋>とはトランス状態で、そのトランス状態とは自我の溶解ではないかとわたしは思いました。
でも、まぁ、そんな理屈をこねるより、
<恋>の一つもした方がよほど理解できるのではないかと書きながら思いました。
随分前に読んだ本に、
<恋>に向かない男の説明がありました。
よく読んだら、わたしはそれにほぼ当て嵌まっていました。
<恋>が好きなのに、<恋>に向かない男、そういう分類にわたしは入ってました。
とても残念です。
その説を覆すような分析をした本と出会ってみたいものです。



歌 森進一 作詩 秋元松代 作曲 猪俣公章
それは恋 近松心中物語より

朝霧の 深い道から
訪れて 私をとらえ
夕もやの 遠い果てから
呼びかけて 私をとらえ
あふれさせたもの
それは恋 わたしの恋

逢う時は 姿も見せず
うつつなく けれど確かに
言葉なく 名前も告げず
ひそやかに けれど確かに
よみがえる 愛のまこと
あふれさせたもの
それは恋 わたしの恋

ある時は 心許なく
疑いに 思い乱れて
ある時は おそれにゆらぎ
悲しみに 我を忘れて
その故に 愛の祈りを
あふれさせたもの
それは恋 わたしの恋


<第十六回終わり>




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