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iの研究


第十五回 <GO>の研究


<GO>は第123回直木賞受賞作品です。
芥川賞と直木賞を分けるのは何なんでしょうか?
わたしには解りません。
美術を絵画と彫刻で二分するのに似て時代遅れで無意味だと思うんですが。
賞というのもねぇ、なんか「カッコ悪い」ですよね?
(現代美術のようにほとんど賞がないのも寂しいですが。)
ともあれ、
<GO>は在日韓国人(コリアン・ジャパニーズ)作家金城一紀が書いた青春小説です。
面白かったですよ。

わたしが在日韓国人である事は「iの研究」で何回か触れました。
この小説を読んだ動機もやはりそこにあります。
でももっと大きな動機がありました。
この小説が「カッコいい」小説かもしれないという予感があったからです。
予感的中です。
これは、「カッコいい」青春小説でした。

青春小説に必要な要素は何でしょうか。
不機嫌、バカヤロー、不良、ケンカ、友情、先輩、恋愛、家族、死。
こんなところでしょうか。
そして、ど真ん中に「自分のことが良く解っていない」があると思います。
そして、これがもっとも重要ですが、主人公が男の場合、そいつは「バカ」であること。
これが最重要です。
「バカ」だから、みんな読めるんです。
「リコウ」だったら話が成立しないでしょうね。
面白くも何ともなくて。
主人公が女の場合、「バカ」じゃ駄目でしょうね。
「リコウ」とも違う何かでしょう。
今のわたしに解るのはそこまでですが。

<GO>には上記の要素が全部入ってます。
主人公は立派な「バカ」です。
条件が揃いすぎていて気持ち悪いくらいです。
どうしてでしょうか?
それは、主人公には明確な「悩み」があるからです。
彼にははっきりとした「悩み」があります。
そこから彼の行動は決まります。
彼が望む、望まないとにかかわらず。



人間はとにかく「悩み」ます。
「悩む」ために生まれてきたかのように。
そして、堂々めぐりを繰り返します。
(あっ、何か解ったようなこと書きましたが、わたしは全然解ってない人です。
人生経験がコレを読んでる人より長いから、不遜にもとりあえずそんなものだろう、と思っただけです。
解ってないから、研究しています。騙されないで下さいね。)

今の時代、「悩み」が何であるか解らないから「悩む」、という構造があるんじゃないでしょうか。
悩んでいるのだけど、その「悩み」の元(もと)が何であるか見当がつかない。
又は、何となく解っているのだけど掴み所がなかったりする。
貧乏だったり、差別だったり、身体が不自由だったりすれば、「悩み」がハッキリします。
ここは誤解して欲しくないのですが、「悩み」がハッキリすれば楽というのとも違います。
人間はどこまでも「悩む」動物ですが、とりあえず「悩み」の対象がハッキリすれば行動を起しやすい。
又、行動を誘うような事柄がむこうからやってくるといった意味程度です。
まぁ、ハッキリしているのがその程度にしても、「悩む」対象が曖昧模糊なのはそれはそれでシンドイことではあります。

この小説を読んでいて、とんでもないことを思ってしまいました。
この小説を読んでいる人で主人公の境遇に同情する人はいないだろう、もはや在日であることは同情すべき事柄ではないと。
もちろん、差別は厳然としてあります。
それにもかかわらず、同情はしない。
一つには、作者が同情されることは「カッコ悪い」ことだと思ってそれを拒否しているからです。
「カッコ悪い」小説は今(コンテンポラリー)の青春小説ではない、金城一紀はそう考えたと思います。
多分。

もう一つには、同情することで自分を安全地帯に置くことが出来なくなったという今の事態。
同情する=他人事である、が成立しない時代です。
逃げ場がなくなったわけです。
そうなると、この主人公は「カッコいい」としかいえなくなる。
「悩み」に対して行動しつづけるわけですから。
金城一紀の術中にハマリますね、どう考えたって。
この小説のキーワードの一つは、「かっこいい」か「カッコ悪い」かです。
小説の中でもこのキーワードが主人公と恋人の会話に頻繁に出てきます。
「かっこいいか」か「カッコ悪い」か、これは重要なことです。
これについては、説明しなくても良いでしょ?



ここでストーリーを簡単に説明します。
まだ出たばっかりの小説ですので、ホントに簡単にします。
興味のある方は小説を読んで下さい。

主人公杉原は小中学校を民族学校で送り、自らの意志で高校は日本の私立高校に進学する。
キッカケは、総連の活動家でもあった父が朝鮮籍から韓国籍にくら替えしたからである。
父はハワイに行きたかった。
それで、民団に金を使い渡航手続きが簡単になる韓国籍に切り替えた。
杉原は小中学校では手のつけられない生徒であったが、高校進学後は自衛のためにしか暴力を振るわなくなる。
同胞から離れて孤立した高校生活を送る杉原の前に一人の少女が現れる。
その少女との恋愛を軸に物語は進行する。

こんなところです。
ハワイに行きたくなった父の心の有り様は小説で読んで下さい。
ビーチボーイズの「ハワイ」を口ずさむ父。
良いですね〜。
さて、小中学校時代の杉原は「暴力」で自分を守ろうとします。
「暴力」で自分を守るということは、自分の弱点に絶対触れさせないためです。
弱点が大きいほどその「暴力」は大きくなります。
弱点とは在日であることです。
それが弱点であることに杉原は苛立ったわけです。
不良の原点ですね。
それが無意味であることに気がついた杉原は今度は「知」で武装します。
少し大人になったわけです。
考古学や人類学の本を読み漁って何とか自分を正当化したい、彼は無意識にそう思いました。

その気持ちは痛いほど解ります、わたしには。
誰だって自分を正当化したいと思います。
自分のあずかり知らないところで生まれた弱点に対しては。
しかしながら、実は「知」は「暴力」とさほど変わらない。
それで武装しようと思っている限りは。
そこからこの小説は始まります。

これ以降は典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール」です。
少年は秘密を持っていた。
その秘密は大した事ではないと思っているが、何となく打ち明けられない。
一方、少女は偶然目撃した少年の不思議な暴力に一目惚れした。
しかし、少女は少年の核心に触れられない。
なぜなら、それは少年自身が明らかにしなければいけない事柄だからである。
この年頃(高三)では少女の方が圧倒的に大人です。
少年は「バカ」です。
だから、
「恋愛」が成立するのです。
唐突な言い方ですが。



「バカ」であることと「カッコいい」は矛盾しません、「恋愛」においては。
逆に言えば、男が「バカ」でないと
「恋愛」は成立しません。
そういうシステムになっています。
昔から今の今まで。
ここで
「恋愛」を研究すると大変ですからしませんが、システムがそういう構造をつくっている事は確かです。
システムが変われば、自ずと
「恋愛」の条件も変わります。

<GO>は青春小説であり、恋愛小説でもあります。
これほど朗るい青春小説も恋愛小説も珍しいのではないでしょうか。
在日文学の系譜というものがあります。
在日朝鮮人、韓国人の文学史です。
わたしはそれらの多くを読んだことがありません。
だから、
<GO>がそこでどういった位置を占めるのかは語れません。
ただ、わたしにとって映画「月はどっちに出ている」は新鮮な体験でした。
これまでの在日観をどこかで覆す映画でした。
<GO>はその系譜にあると思います。
肌触りが非常に似ているからです。

頑なな民族心から距離を置いて、自分の位置を確かめる。
しょうもない自分は今どこにいるのか?
そしてどこに
行くのか、行きたいのか?
それは今の日本人にとっても大きな課題であり、もし
<GO>が日本人に共有されるとしたら、そこのところではないかと思います。

制度的な差別は歴然と続いていながらも、日本人の在日観は大きく変わってきました。
そうですねぇ、ソウルオリンピックの頃からでしょうか。
オリンピックというのは内側だけでなく外側も変えるものです。
この頃から、日本人は在日を特殊な人々と見なくなったような気がします。
在日自体の豊かさも日本人と肩を並べるようになりました。
韓国も豊かな国の仲間入りをしました。



わたしが子供の頃とっても嫌なことがありました。
事件があって犯人が逮捕された時、テレビ、ラジオ、新聞でその氏名を公表しますよね。
○山×男こと、金某。
この「こと」、これが嫌でした。
暗〜い気持ちになりました。
しかもしょっちゅうあった気がします。
たいていは暴力団絡みの事件です。
後で解ったことなのですが、暴力団の構成員に在日が多かったのです。
暴力団、つまりヤクザの世界に入る層はやはり貧困層です。
(それと、暴力での自己武装です。)
とにかく、「こと」は嫌でした。
それが、いつ頃からかあまり聞かなくなりました。
在日が豊かになったからです。
(それと平行するように日本の視野が広くなりました。)

<GO>は、生まれた時には既に豊かであった家庭に育った在日の物語です。
<GO>の軽さはそこにあります。
「月はどっちに出ている」の軽さもそれです。
差別が重く苦しいものと一緒にある時と、軽さと共にある時では随分違いますね。
今の若い人が
<GO>に共感を持つとしたら、この軽さから入っていくのではないかと思います。
何と言っても「コリアン・ジャパニーズ」ですから。
(これは編集部でつけたキャッチフレーズかもしれませんが。)

杉原の家庭はバラバラでありながらどこかで結束があります。
杉原にとって父は強力なライバルです。
彼の友人との関係にも何か強い絆があります。
伝説の先輩にも可愛がられます。
ここには、マイナスから出発したとはいえ確かな人間関係が存在します。
古典的な青春小説のカタチがしっかり残っています。
わたしは読み終わった後、
ひょっとしてこれを読んだ若者は在日を羨ましく思うのではないか、と思ってしまいました。
ま、わたしの誤読かもしれませんが。

ひとつ不満に思うこともありました。
<GO>にはケータイが出てきません。
うーん、ここはリアリティを欠くところです。
あえてそれを外したのでしょうか?
多分、あえて外したのでしょう。

優れた青春小説の読後感は爽やかなものです。
<GO>の読後感は、爽やかでした。
だから、研究しました。

<第十五回終わり>



<お知らせ>
前回<デザイン>の研究で最後にLinuxに触れましたが、相互リンクしているKさんのK's Kornerのさみだれ雑記63回(8月13日更新)でLinuxのデザインについて取り上げてくれました。面白いです。ご興味のある方は覗いて下さい。


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