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iの研究


第十回 <堕ちる>の研究


東京の渋谷区に円山町という街がある。
円山町は、昔は花街、今はラブホテル街として有名である。
隣町の松涛にはギャラリーと美術館があるので何回か行ったことがある。
東急のbunkamuraまで道玄坂を登って、その先の道の右手が松涛で左手が円山町。
もっともそこに円山町があるのを知ったのはほんのちょっと前であるが。

3年前、円山町で世間を騒がせた殺人事件があった。
東電に勤務していた39才のOLが、木造アパートの空室で死体となってから11日目に発見された。
OLは売春婦でもあった。
それも管理売春ではなく、立ちんぼ(夜鷹)であった。
彼女の昼の顔と夜の顔の落差から、マスコミは騒然となった。
しばらくしてネパールの青年が逮捕された。
この事件を憶えている方は多いと思う。
わたしもテレビや新聞を通じて大まかな情報を得ていた。
しかしマスコミの内容のない報道に嫌気がさし、いつも通り事件を記憶の底にとどめて報道に接するのから遠ざかった。

先週、何気なく新聞を読んでいると書評欄の「東電OL殺人事件」という活字が目に入った。
わたしは休日になるとその本を求めに本屋に行った。
わたしの記憶の底が疼いたのである。
この本は佐野真一さんが書いたノンフィクションである。
最初のページを捲ると一気に最後までいってしまった。
読了後、わたしの頭は軽い興奮状態に陥った。
この興奮状態は何なんだろう?
それを考えたのが今回の研究である。

被害者のWさんは慶応大学経済学部を卒業して東電に入社している。
役職をみるとOLというよりキャリアウーマンといった方が相応しいだろう。
東電のシンクタンク的な研究に就いている。
仕事も熱心にこなしている。
すでに管理職であり、年収は一千万円近い。
一般的に見ればエリートである。
東大卒の父は東電に勤めていたが、役員就任寸前に病で亡くなっている。
50代前半の若死である。
母は日本女子大卒で良家の出身であり、妹も順調な人生を歩んでいた。
彼女は地味で目立たないが、頭の良い優等生タイプ、けっして奔放なタイプではない。
その彼女が何故売春婦として円山町に立っていたのか。
彼女の心の闇は何であったか。
わたしの疑問はそこであり、著者の疑問も又そこにあった。




「東電OL殺人事件」は彼女の心の闇の謎、逮捕された冤罪のネパール青年の軌跡を平行に辿り、その交錯が日本社会の姿を映し出す構成になっている。
割かれた分量は彼女の闇もネパール青年も同量だが、力点は前者に置かれている。
わたしの関心も又そちらである。
Wさんは殺される十年ほど前から昼の勤務とは別に夜の仕事を始めたようである。
最初はクラブのホステスだったがホテトル嬢となり、円山町で立ちんぼ(売春)を始めるまでに<堕ちて>いく。
殺された時はホテトル嬢と立ちんぼを両方やっていた。
ウィークデイ、昼は東電、夜は立ちんぼ。
ウィークエンド(土、日)、昼はホテトル嬢、夜は立ちんぼ。
休みなしである。
そして立ちんぼでは、自分にノルマを課していたようである。
客を四人とらなければ帰らない。
どんなに遅くなっても終電で西永福の自宅に帰ったそうである。
恐るべき勤勉さ、律義さである。
怠惰なわたしなどは想像もできない日課である。
それこそ、「
雨の日も風の日も」スケジュールは実行されていた。
ノルマ達成の為には、嫌がる客を駐車場に連れ込んで性行為に及んでいる。
金額も客によっては数千円までおとしている。

彼女はどうしてここまで<堕ちた>のか。
事件の性質上、近親者、東電関係者の口は閉ざされている。
取材はどうしても周辺取材に限られる。
おぼろげにしか彼女の輪郭が掴めないもどかしさはあるが、読者であるわたしには十分に思えた。
Wさんが高校生の時に父は死んでいる。
彼女は父をこれ以上尊敬できないというところまで尊敬し、父も娘を溺愛していた。
精神的な近親相姦と言っていいと思う。
父の死がきっかけで拒食症に陥る。
その後、父が病死で果たせなかったポジションに就くために彼女は懸命の努力を重ねる。
その過程で挫折が幾つかあったようである。
上級公務員試験の失敗、東電での上司との摩擦。
しかし、これらは誰もが経験する挫折の域を超えない。
そういった挫折は誰かに甘えたり、酒場で飲んだくれて愚痴をこぼしたり、趣味で紛らわせたり、いろんな方法で解消してリスタートをかける。
しかし、彼女にはそんな相手もいなかったし、方法も無かったようである。
求道的に自分の目標に向かうしか術(すべ)がなかった。




本書の最後の方で著者と精神科医の対話が載っている。
そこで彼女の心の闇を纏(まと)めている。
彼女は理想であった父に追いつき超えられない自分を、「見下げ果てた自分、汚い自分」として自己処罰したい衝動から行動していったのではないかと推論している。
その結果として、心が身体に「見下げ果てた自分、汚い自分」になることを命じていってしまったと書かれている。
著者はそれを結論とはしていないが、道筋はそんなに間違っていないと思う。
痛々しいまでに自分の肉体を貶めた彼女は哀れである。
自分の肉体を物(もの)と化して、想像を絶する数の男と性交渉をもっている。
その自虐行為は正視できないほどである。
どうして相談する相手がいなかったのか、どうしてその求道的ともいえる考えを翻すモノが無かったのだろうか、とわたしは思ってしまう。
所詮は他人事としてか考えられない立場である事を承知していても。

いってみれば、彼女は「自己肯定」が出来なかった。
「自己否定」を必死に解消するために<堕ちて>いった。
「自己肯定」とは難しい作業である。
人は「自己肯定」と「自己否定」の間で揺れ動きながらその生を歩むものではないだろうか。
その揺れ動きの中で他人との関係が生まれたり消えたりする。
彼女にはそういった他人との関係が非常に薄かったようである。
というより、死んだ父との関係が濃密すぎて他人と新たな関係を結べなかった。
著者は坂口安吾の有名な「堕落論」を引用して、彼女の<堕ちる>事が及ぼした衝撃を語っている。
わたしは「堕落論」を読んでいない。
しかし、彼女の<堕ち方>にはショックを受けた。
彼女は<堕ちきる>前に命を落としてしまったのか?
わたしには解らない。

彼女は終電車で菓子パンを食い散らかし、円山町の暗がりで立ち小便をしたそうである。
売春やそういった行為に、裸となった人間の解放感が少しでもあったのだろうか?
虚飾と偽善にあふれた社会から抜け出た喜びがあったのだろうか?
又、彼女の馴染ともいえる客との間に何らかの交流があったのだろうか?
それとも絶対的な孤独の中でしか<堕ちる>事はできないのだろうか?
わたしには解らない。



わたしは<堕ちる>女性が主人公の映画を数本観ている。
溝口健二「西鶴一代女」、神代辰巳「赤い教室」、渡辺護「夜のひとで」、題名を忘れたテレビ放映の韓国映画。
一途に<堕ちる>女の映画である。
わたしには良く理解できなかった。
ボロ雑巾のように野垂れ死にする女達。
本書を読んでその一端が解ったような気がする。
女性の<性>がそうさせるのかもしれない。
その<性>の社会性がそうさせるのかもしれない。
本書の中で、彼女の大学時代のゼミの同期生が著者の取材でこう言っている。
「女性ならば誰でも、自分をおとしめてみたい、という衝動をもっている。」

「自己肯定」には必ずモデルがある。
あるべき自分の姿を想定して、そこからの距離で判断がおこなわれる。
そのモデルがあまりにも少ない事も、彼女の悲劇の遠因ではないだろか。
戦後に作られた「自己肯定」のモデルは、彼女がモデルとした父の姿とそう変わらない。
多様化といわれても、まだまだそのモデルは少ない。
極端なことをいえば、人の生の数だけそのモデルがあってもいいはずである。
「自己肯定」は難しく、難しいことを理解するだけで精一杯である。
生き方の多様性や自己との付き合い方を、人は必死に模索しているように思える。
わたしもしかりである。

彼女が亡くなった円山町から渋谷駅に向かうと、ケータイに話しかけながら歩いている無数の人間と行き合う。
膨大な音声とメールの文字が言葉となって電波に乗っている。
未曾有の言葉の氾濫かもしれない。
そのコミュニケーションになりえないコミュニケーションは、模索の軌跡かもしれない。



わたしが本書で一番印象に残ったところは、彼女が知りあいの客にセックスの事を訊かれて、男性とのセックスはあまり好きではないと答えて語った次の言葉である。
「日曜の朝、自宅のベッドの中でオナニーするのが一番好きです。」
よくそういっていたそうである。
彼女が自分だけの時間を持ち、自分を許したのはその時だけだったんだろう。
つかの間の寝坊が許される日曜の朝のまどろみの中で、文字通り自分を慰めたと思う。
この「性」は孤独な「性」だが、何故かわたしは心が安らいだ。

<第十回終わり>




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