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「美」と「術」2000 / テキスト




わたしは自分のホームページの写真は自分で撮っています。
カットや記録の為に写真を使っているからです。
去年デジカメを買って、それから写真を撮り始めました。
写真は全くの素人と言ってよいでしょう。
当然ヘタです。
まぁ、それでもある程度目的を果たしていればヘタでも何の問題もないし、それで良いと思っています。

写真を撮ろうと思ってファインダーを覗いている時、わたしは無意識に「絵」を考えている事があります。
「絵になる」ことを避けようという意識が働くのです。
「絵になる」ような風景は避けて、「絵にならない」ような風景を選ぶ。
「絵になる」ような構図は避けて、「絵にならない」ような構図を選ぶ。
もちろん、わたしは素人ですから大抵失敗します。
そこには「絵になる」ことも、「絵にならない」ことも出来なかった中途半端な写真が残ります。
わたしは、他人はともかく自分自身には大変寛容な人間ですからそれを許してしまいます。
しかしながら、「絵になる」、「絵にならない」といった事はとても気になります。
一体それはどういう事なのだろうかと。



「美」と「術」展は今回で六回目になります。
夲展の2000は小山穂太郎、小林聡子、若宮綾子の三作家に御参加いただきました。
考えてみれば、「美」と「術」展の根底には「絵になる」ことではなくて、「絵にならない」ことがあったかもしれません。
去年の1999展は三作家による写真を使った作品が展示されました。
その写真のどれもが「何の変哲もないありふれた」風景を写したものでした。
つまりは「絵にならない」風景です。
それが作家の手によって新たな「絵になる」風景として作品化されました。
このプロセスには「見る」ことに対する批評性が存在します。
「絵になる」、「絵にならない」は人が「見る」という行為を通して判断するからです。
そして、観客が「観る」ことによって最終的にそれは「絵になる」風景となります。
わたしにとってその変換のプロセスこそが、「美」と「術」ではないかと思っています。

話がいささか抽象的になりすぎました。
音楽を例にとって説明してみましょう。
HIP HOPが登場した時、スクラッチというテクニックが大流行しました。
レコードの盤面を針で擦ることがスクラッチです。
これはそれ以前では単なるノイズでした。
音楽の要素ではなくて、そこから外れた雑音(ノイズ)にすぎないものでした。
音楽の範疇から外れたスクラッチが音楽となった時、それが「絵にならない」が「絵になる」瞬間です。
DJがスクラッチを取り入れた段階では、それはまだ「絵になる」ところまではいっていません。
DJの作った音がダンスフロアのリスナーの支持を得た時、その時が「絵になる」時です。
レコードの盤面を針で擦るというタブーを音楽に転化させた行為には批評性があります。
音楽の構成要素の枠を再構成したからです。
(実際はそんな理屈ではなくて、何かを壊す=創造する感覚が優先していたと思いますが。)
「絵になった」スクラッチは一つの技法となりました。
そこから又新たな再構成が始まります。




さて、「絵になる」、「絵にならない」の間には固定的なラインはありません。
音楽の例のように、感覚と意識の問題です。
それは常に動いています。
永久運動と言っていいかもしれません。
止まることなく動き続ける運動です。
現代美術はそう言った感覚と意識の運動に関わっているものです。

人と、人が作る社会も常に動いています。
現代美術が対象にしているのは運動を続ける人と社会であり、そうである以上現代美術も運動し続けます。
動いているという事は変化している事でもあります。
「絵にならない」が「絵になる」は、一つの変化です。
この変化について少し考えてみます。
写真の話から始まったので、フレームという言葉を手掛かりにしてみます。
ファインダーから見えるのがフレームです。
フレームとは、枠ですね。
先ほどの音楽の話でも出てきた枠です。

人は何かを認識する時、空間と時間という概念を使います。
それで世界を理解しようとします。
空間と時間、それ自体はのっぺりとした捕らえ所が無いものです。
そこで人はそこにフレームを作ります。
例えば、太陽、月の変化で年/月/日/時/分とフレーム化します。
空間にもフレーム化がおこなわれます。
宇宙があって、銀河系があって、地球があって、という具合に。
フレーム(枠)を作くる行為は非常に観念的です。
観念そのものかもしれません。
これを突きつめていくと哲学的な話になりますが、ここではこれ以上は触れません。
わたしが思っているのは、人はフレームを作りそのフレームの集合体で世界を認識しているのではないかという事です。
時間と空間を軸に無数のフレームを作り、それを組み合わせて世界を認識している、そんな感じです。

認識とはフレーム化すること、と考えてみましょう。
フレームは当然共有されるものが中心となります。
1時間は、わたしにとっても貴方にとっても同じ1時間でないと困りますから。
共通のフレームを持っているとそこにコミュニケーションが生まれます。
正確には、コミュニケーションの必要からもフレーム化がおこなわれると言った方が良いかもしれません。

待ち合せの時刻を「日が沈む時」と言った場合と「午後六時」と言った時では、フレームが違います。
同じ時刻を指していながら、微妙にフレームが違います。
後者の方が抽象性の高いフレームです。
時計を両者が持っていれば曇りの日でも雨の日でも有効で便利なフレームです。
(逆に時計を忘れるとそのフレームは無効となりますから、かえって不便ですが。)
新たな時計といった便利なフレームが生まれると、太陽の動きで時刻を計るフレームはあまり使われなくなります。
このように人が持っているフレームの集合体は常に変化するものです。



色も実際は無限に存在するのですが、フレーム化されると赤なり青なりの抽象性を持ちます。
わたしが「赤」と言った場合、貴方の想像する「赤」とは厳密には一致しません。
色に対する個別のフレームが微妙に違うからです。
ですから、コミュニケーションを成立させるためにはカラーチャートの様な基準となるフレームを使用します。
色に関しても、人は気が付かないうちには膨大なフレームを持ちそれを使い分けていると思います。
そして、抽象性に振り回されて色の多彩性や不思議さを忘れてしまう事もあります。

人がものを「見る」時も所持している膨大な数のフレームを使います。
「絵にならない」風景が、「絵になる」風景に突然転化する事はありません。
風景は風景のまま「絵」とは関係なくそこに在るだけですから。
のっぺらぼうな空間と時間が在るだけです。
「絵」は人の感覚と意識のフレームの集合体として顕れます。
「見る」というフレームの集合体に変化がおきた時、結果として「絵」にも変化がおきます。
「絵にならない」が「絵になる」に。
変化のきっかけは千差万別です。
それは「見る」人にも解らないかもしれません。
風景に喚起された遠い昔の忘れていた記憶かもしれません。
あるいは探し求めていた何かの片鱗がそこに在ったのかもしれません。
何かがきっかけで「見る」というフレームが変わります。
作品とは、作家の「見たもの」というより「見る」そのものかもしれません。
そして、それを観客が「観る」。
その内側には、「絵にならない」が「絵になる」という「見る」ことに関するフレームの再構成がおきています。
再構成の全プロセス、それが「美」と「術」ではないか、とわたしは思っています。

フレームという言葉は便宜上使っただけで他の言葉に置き換え可能です。
誤解を承知で、「絵にならない」から「絵になる」の説明の道具に使用しました。
ところで、人が一番基準にしているフレームは何でしょうか?
わたしは、人の一生ではないかと思います。
生から死までの時間と空間の枠。
揺れ動く枠の中で人は苦闘します。
その枠があるから、喜びもあり苦しみもあります。
その枠があるから、生きるという行為が意味を持つのかもしれません。
そして、「見る」というフレームの集合体はその枠とリンクしながら動き、変化していると思います。


フレームは額縁の事でもあります。

若宮綾子さんは、意識的に額縁の中に自分の表現を求めています。
平面という枠の中に存在する豊かな多様性を模索しています。
簡潔な表現には、一人の人間という枠の中にある豊かで多様な可能性が開示されています。
小林聡子さんの平面作品は平面という枠を全く気にしていない表現です。
立体作品でもインスタレーションでもそうです。
彼女が求めているのは、すべての枠から常に逃れようとする自由な空気の様です。
彼女の「青」を観ているとそんな想像をしてしまいます。
小山穂太郎さんは、フレームそのものを「見る」作家です。
構造の中で見えたり、見えなくなったりする何かを「見よう」としています。
過激とも思える身振りとは裏腹に、その表現は静かにわたしの深いところに降りてきます。
「見る」ことの不思議な感覚を伴って。

御高覧よろしくお願いいたします。

藍画廊 夲展企画担当  ふくだ まさきよ




会期

2000年12月11日(月)-23日(土)

12月17日(日)休廊

11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)

11日(月)5:00PMよりオープニングパーティをおこないます。

会場案内





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