金井聰和展
-裸の家-
KANAI Toshikazu
金井聡和展の展示風景です。
各壁面方向からの展示をご覧下さい。
画廊入口から見て、左側の壁面方向の展示です。
正面の壁面方向の展示です。
右側の壁面方向の展示です。
入口横の壁面方向の展示です。
以上が展示室の展示で、作品はインスタレーション形式になっていますが、個々も作品として独立しています。
展示の詳細、サイズ、マテリアル等はこちらのリストをご覧下さい。
展示作品は台座の上に設置された家と床置きされたヘルメット(鉄兜)プラス枝に大別されます。
上は家の作品です。
木で形を形成し、その上に写真が貼付けられています。
家は金井さんご近所の家がモデルになっています。
裸の家です。
なぜ裸といえば、貼付けられた写真が女性のヌードだからです。
ちょっと見には分かりませんが、よく見ると女性の肌であることが分かります。
この写真の出所は道に捨ててあったアダルト本(エロ本)だそうです。
これは複雑な形をした家です。
金井さんは周囲を見回してこの家を制作したそうですが、制作後にGoogleマップの存在に気が付いたそうです。
あれを使えば簡単に家の造形が出来るからです。
女性のヌードで出来た家。
それもアダルト本の。
でもそんなふうには見えませんね。
性の猥雑さよりも崇高さがここにはあるような気がします。
金井さんは陶の作家です。
というわけで陶の作品の登場です。
ヘルメットというより鉄兜ですね、これは。
モデルになったのは旧日本陸軍の90式鉄帽だそうです。
刻印されているのは家紋です。
その中心から枝が生えていますが、その多くは桜の樹です。
鉄兜に枝が生えた状態の作品全景です。
タイトルはすべて「兵士の樹」になっています。
再び鉄兜。
おやっと思うのは、家紋に混じってトヨタのマークが見えますね。
後ろに回れば、ベンツのスリーポインテッドスターも。
いまや家紋も企業のCI(コーポレット・アイデンティティ)も同等ということでしょうか。
あるいは、企業戦士の暗喩かも。
この星印が鉄兜の正装(?)ですね。
敗戦から67年。
ちょうど人の一生ぐらいの年月です。
長いといえば長いし、短いといえば短い、そんな時の経過です。
枝にはテグスで小さな白い家紋が吊るされています。
これも陶製です。
上の画像が菊の御紋ですが、皇室のそれではありません。
菊の花の弁の数が違います。
これも家紋です。
今や家紋というもの滅多に見なくなりましたね。
葬式の時に見かけるぐらいです。
<作品コメント>
住宅街を、家々を見ながら歩くという行為には幾分かのやましさがつきまとうが、家の形や成り立ちに興味があるのでつい不躾な視線を向けてしまう。
家の全体像は歩道から見上げただけではうまく捉えられないことが多く、時に家の横や裏手から回り込んで見て思いがけない形に驚くことがある。
家の形は、風土的、歴史的、社会的、経済的、技術的、あるいは様式的、個人的な趣味といった多様な要素によって成り立っているように見受けられるが、一人の人にとっての最初の家は、胎児の頃の母体なのかもしれないと思ったりもする。
家の中に裸があり、裸の中にまたヒトがいて、家の外には街があり国があると考えているうちに、現在の日本国にとっての外は、実は戦中戦前の日本なのではないかとふと思い至った。
生体にとって外部との交流が欠かせないものであるように、国にとっても外部とのつながりは欠かせないものだろう。
そうであれば、亡き兵士たちを街に呼び寄せ、縄文の集落のように死者たちと共に暮らすのはどうだろう。
制度としての家、家族としての家、そして国家と戦争。
多くの問題を孕(はら)んだ作品です。
その佇まいは静かで穏やかですが、考えさせられます。
この作品が優れているのは、美術という枠組、制度から逸れずに、美術というジャンルを大きく超えて問題提起している点です。
わたしの個人的な見解ですが、安倍政権になってからとてもきな臭いものを感じます。
経済も外交も内政も、です。
そんな折に見た金井さんの作品。
ここにあるのは日常的でありながら、深い問題意識です。
日本という国に対する根底的な懐疑です。
これからわたしたちは何処に行くのでしょうか。
その答えを見つけるには、過去を現在をしっかりと見つめることです。
戦前、戦中、戦後という時代の意味を見据えながら、今を見直すことです。
そこにしか、未来はないと思います。
ご高覧よろしくお願い致します。
金井聡和経歴
2004年藍画廊個展
会期
2013年5月13日(月)ー5月18日(土)
11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)
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