藍 画 廊



大森愛展
OHMORI Ai


大森愛展の展示風景です。



画廊入口から見て、正面と右側の壁面です。
正面の六点は組作品で、作品タイトル「残骸拾い」で、各8.5(H)×12.5(W)cm、
右は「残骸-2」で、43×54cmです。



入口横右の壁面です。
左から、「pillow-1」で、7×10.5cm、
「cushion」で、7×10.5cmです。


左壁面です。
左から、「pillow-2」で、7×10.5cm、
「残骸-1」で、60×87cmです。

以上の六点が画廊内の展示で、その他道路側ウィンドウに一点、芳名帳スペースに二点の展示があります。
作品はすべて写真(フォトアクリル)です。



左壁面の「残骸-1」です。
展示中最大の作品で、写真が壁から浮いているように展示されています。
(フォトアクリルは、透明なアクリル板に写真を貼り込み展示する加工方法です。)
通常の額装した写真とは違い、アクリルと一体化した画像は、平面でありながら立体の趣(おもむき)があります。

残骸。
意味深なタイトルですが、大森さんが一夜頭を預けた枕の状態ですね。
頭の形がそのまま残っているの意で、残骸だと想像します。
真正面から残骸を捕らえた、作品。



正面壁面、端正に並べられた六点組の「残骸拾い」の一点です。
8.5(H)×12.5(W)cmの写真ですが、小ささを感じません。
展示の工夫の勝利です。

この残骸は、大森さんの一夜の寝具の痕跡です。
寝相の跡ですね。
もう一点ご覧下さい。



一見すると、さほど変化がないように見えます。
子細に見れば、布団の様子が異なっていることが分かります。
ということは、一人の人間の一夜の行動は、それほど変わらないという事実です。
同じような写真が六枚並べられた壁面は、ミニマルな立体の展示に似て、被写体の残骸とは対照的にクールです。
(ところで、同じ人間でも十年単位で観察してみれば、寝相に変化はあるのでしょうか。)



右壁面の「残骸-2」です。
これはクッションでしょうか。
だとしたら、大森さんの座った跡。
沈み具合とシワシワが、痕跡です。

寝具ほどではありませんが、生々しい残骸です。
しかし、クールな展示方法で中和されています。
いわばフォトアクリルが一つの装置(メディア)になっていて、それを見るような感覚です。
写真展というより、インスタレーションといった方が正しい展示です。



入口横右壁面の二点です。
左が「pillow-1」で、右は「cushion」です。
枕とクッションですね。
ある日、ある晩の大森さんの痕跡が残されています。


このページは「探偵物語」ではありませんが、大森さんも探偵に違いありません。
日常の些細な痕跡から、一人の人間の実在を探る。
その作業は探偵そのものですが、異なっているのは、対象が自分自身であることです。

一人の人間の痕跡は、探ってみれば、至る所にあります。
玄関にも台所にも机の上にも。
その中で、最もリアルな跡は、寝具かもしれません。
枕や布団に残された、痕跡(残骸)です。

なぜ大森さんは残骸を拾い集めているのか。
それは、存在の確証が曖昧な時代だからです。
情報通信技術の発達で、人は広範な空間で、人と接することが可能になりました。
遠く離れた友人と、あたかも隣りにいるような感覚で、携帯で話すことができます。

その時、身体は置き去りにされたままです。
わたしたちの日常は、それが常態になっています。
置き去りにされた身体は、日に日に生々しくなります。

いや、身体が生々しくなるのではなくて、それを見る人間の眼に、そう映ります。
元々身体とは生々しいものですが、見て見ないふりをしていると、一層生々しく映るものです。
だから隠そうとして、ますます身体を置き去りにします。
(逆に見える肉体改造も、隠すことの一種です。)

だから、大森さんは残骸を拾い集めている。
生々しさを正視しようとしています。
生々しい痕跡から身体を復元して、そこに自分自身を認める。
そのプロセスが作品ですが、中心にあるのは、置き去りにされた身体への愛おしさだと思いました。

ご高覧よろしくお願い致します。

2006年藍画廊個展
2007年藍画廊個展



会期


2008年6月16日(月)ー21日(土)


11:30amー7:00pm(最終日6:00pm)



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