藍 画 廊



高柳恵里展
TAKAYANAGI Eri

あけましておめでとうございます。
本年も藍画廊をよろしくお願いいたします。

2008年最初の展覧会、
高柳恵里展の展示風景です。



画廊入口から見て、左側の壁面方向です。
左側に設置された作品は、タイトル
「ライトスタンド」で、ライトスタンドと調光機のインスタレーションです。
サイズは380(W)×380(D)×1660(H)mmです。
(椅子は作品に含まれていません。)
右側に床置きされた作品は、「Passage (土産)」で、木・花瓶・置物・サランラップ・両面テープを使用しています。
サイズは130(D)×530(W)×210(H)mmです。



正面と右側の壁面方向です、
左の作品は上でご紹介した「Passage (土産)」です。
右の床置き作品は、「Passage (blue)」で、ガラス・アクリル板・ガムテープを使用しています。
サイズは320(W)×430(D)×280(H)です。

以上の三点が画廊内の展示で、その他道路側ウィンドウに一点の展示があります。


左壁面方向のインスタレーション、「ライトスタンド」です。
前述しましたように、椅子は作品に含まれていませんので、座るのは自由です。
左右の画像を比較していただければ、ライトの明るさの違いがお分かりいただけると思います。
このライトスタンドには調光機が付いています。。
通常は用途に応じて明るさを調整しますが、この作品の光は、最小から徐々に最大、最大から徐々に最小へと自動的に変化します。
それが、延々と繰り返されます。



正面に床置きされた「Passage (土産)」です。
小さな木の台の上に、(左から)陶器の花瓶、ガラスの置物、木彫りの鳥が置かれています。
陶器の花瓶とガラスの置物、ガラスの置物と木彫りの鳥の間にはサランラップが巻き付けられています。



右側に床置きされた「Passage (blue)」です。
一枚の青いガラス(ステンドグラス用)と二枚のアクリル板(透明と不透明)の角がガムテープで接着され、三角錐のような形で自立しています。



道路側ウィンドウに展示された「Poster 2008 」です。
サイズは466(W)×700(H)mmで、紙に顔料プリントです。
タイトル通りポスターで、本展のインフォメーションが記されています。
この作品は三点のシリーズで、画廊内に置かれたファイルで他の二点も見ることができます。
又、作品タイトルにはサブタイトルが付けられていますが、ここでは秘密にしておきます。
画廊でご確認下さい。


(町の片隅にて、くつろぎと外気とが、親密さと孤独感とが、内と外であるとかが、よどみなく有機的に交ざり合っていくために・・・。)

展覧会の案内状に記された高柳さんの言葉です。
ホテルの一室にあるような、椅子とライトスタンド。
しかし、明かりはイルミネーションのように、ゆっくりと明滅を繰り返します。
上の言葉は、この作品の為に書かれたと想像します。

世の中は常識を土台にして成り立っています。
至極当然のことですが、常識の下には、その基になる認識があります。
認識とは、物事を見分け、本質を理解し、正しく判断することです。
難しくいえば、人間が事物を認め、それとして知るはたらきです。

認識がないと人間は社会で生きていけませんが、認識に囚われると、固定観念が生まれてしまいます。
高柳さんの作品は、(いってみれば)その固定観念を揉み解してくれます。
やさしく、やさしく、揉み解してくれます。
もし本当に癒しの作品があるとするなら、高柳さんの作品こそ、癒しの作品です。
癒しが必要なほどの疲労とは、大概は固定観念から生まれるものです。

ただ明滅を繰り返すライトスタンド、特に珍しくもない土産物の陳列、ガラスとアクリル板の戯れのようなオブジェ。
もし、貴方にそれ以上の発見がないとしたら、固定観念の病に陥っています。
社会的には健全ですが、人間の自由な想像力に関しては不健全な証拠です。
もう一度、よく見てみましょう。

失礼なことを書き連ねていますが、お許し下さい。
わたしの感想、考えを少し書いてみます。
わたしたちが、調光器の付属したライトスタンドを見れば、その用途に直ぐ気が付きます。
光の用途や気分によって、それを調節します。
この認識のプロセスは、正しい判断です。
ただし今の社会では、という保留が付きます。

今の社会とは、近代の社会のことです。
近代的認識が正しいとされている社会のことです。
わたしが固定観念といったのは、近代認識に囚われた状態のことです。
近代的合理以外の観念、想像力に欠けている状態です。
もしその固定観念から高柳さんの作品を見れば、難解に映ると思います。
ところが実際は、難解とは次元の違う作品で、とても優しい作品なのです。

物語、を想像して下さい。
直ぐ頭に浮かぶのは、小説ですね。
その頭に浮かんだ小説とは、近代的認識の上に成立している近代小説です。
それでは、その物語を忘れて、高柳さんの作品を見て下さい。
そこには、高柳さんの物語があるはずです。

(町の片隅にて、くつろぎと外気とが、親密さと孤独感とが、内と外であるとかが、よどみなく有機的に交ざり合っていくために・・・。)


作品には、レベルという物差しが付いて回ります。
レベルが高い、低いという評価です。
高柳さんの作品を見ていると、レベルの高さを実感します。
これはわたしだけではなく、世評でもそうです。

なぜ高いか。
その物語の面白さもさることながら、その構築した世界の自律性に優れているからです。
常に自律性を冒すような誘惑と恐怖と戦いながら、自分に妥協しない。
その誘惑と恐怖とは、他ならぬ美術の世界の固定観念です。
「美術の固定観念を壊す美術」、という固定観念です。
その罠に嵌まらないよう、高柳さんは、高柳さんの物語を作り続けています。

ご高覧よろしくお願いいたします。

2004年藍画廊個展


会期

2008年1月15日(月)-26日(土)
-1月20日(日)休廊-

11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)


会場案内