藍 画 廊



永冶晃子展
漂景と出会う時
NAGAYA Akiko


永冶晃子展の展示風景です。
画廊内の展示は、ビデオインスタレーション作品二点です。
画廊入口から見て、右側方向に展示された作品です。



作品タイトルは「漂景と出会う時」で、ビデオ、木製ボード、アクリル板で構成されたインスタレーションです。
ビデオの映像は、軒先に積もった雪が溶ける風景です。
スクリーン上半分が凍った雪で、下半分は空です。

ポツン、ポツンと溶けた雪が水滴となって下に落ちていきます。
しばらく映像を見ていると、不思議なことに気が付きます。
水滴の落ちるスピードが、その時によって違うのです。
普通の速度であったり、ユックリであったり、よりスローモーションであったりします。


この画像では分かり難いと思いますが、水滴の落ちている場面のクローズアップです。
上の画面の、スクリーン右側の雪が垂れ下がった部分です。

速度の違いは、ビデオ編集の段階で、再生速度の異なる三つのレイヤー(層)を合成、編集しています。


画廊入口から見て、左側方向に展示されたビデオインスタレーション作品です。



「雨箱」で、作品サイズ
1200×300×300cmです。
ミクストメディアで、作品上部の空いた部分から覗き込む作品です。



覗き込むと、下部に映っているのはこのような光景です。
空と木の枝、葉ですね。
しばらく眺めていると、ポツンと水滴が画面に落ちて、画面全体が揺れます。
雨のようですが、どこから落ちてくるのか分かりません。
ボンヤリした風景に比べて、雨の水滴が落ちる様子は、とてもリアルです。



水滴が水に落ちて、木の枝、葉と空が揺れている場面です。
右下に大きな波紋ができていますね。

この作品は撮影時に秘密があります。
底が透明になった水の入った容器の下にカメラを据えます。
映像は容器の水越しに、木の枝、葉と空(及び空だけの画面)を写します。
雨を待って、降り出す頃合いを見て、撮影をスタートさせます。

ビデオ編集と映像を収めた箱にも一工夫があって、この不思議な「雨箱」は成り立っています。
結局、箱の上から覗くことは、スクリーンの裏から見ていることになり、水滴(雨)は下から降っていることになります。
画廊内展示の他、道路側ウィンドウに写真作品一点が展示されています。
(ページ最上部の小さな画像です。)


「漂景と出会う時」。
漂景とは漂う景色のことで、それは景色の変化です。
雪が水に変わって、落ちる。
太陽の位置と熱が変化することによって生じた、景色の変化です。

この変化はシンプルで、どうということない変化ですが、万物の基調を為しています。
この一滴が、人間を含むすべての自然を着実に変えていきます。
雨や雪解け水が川となり、川は海に注ぎ込み、海の水は蒸発して雲を作る。
そういったサイクルの象徴的な一場面ですが、その些細な事柄の集積が、本当の意味の歴史かもしれません。
歴史とは、人間の歴史だけではないはずですから。

雪が水滴となって落ちる。
この変化は、人間にとって、時間を意味します。
水滴の落ちるスピードに速い遅いはありますが、時間に長い短いはありません。
時間とは、ただ経っているだけですから。
永冶さんが速度の違うビデオを合成、編集した意図は、(私見では)この時間を問題にしているからです。

速度とは、距離を時計時間で割ったものです。
わたしたちは、この速度や時計の時間を、時間そのものと混同していないでしょうか。
そんな問いかけが、「漂景と出会う時」にはあると思います。
(もちろん、作品の見方は自由で、様々な解釈があってしかるべきです。)

永冶さんの過去の作品を見ると、概ね水がモチーフになっています。
水。
人間の内外に水は存在していて、その繋がりも又、太古から現在まで綿々と続いています。
水は人間の生命に欠かせませんが、その優しい感触や眺めは、意識にも影響を与えます。
しかし、水が溢れると、人間の生命を奪います。
治水が人間にとって最大行政だったのは、書くまでもありません。

永冶さんの作品は、構造に工夫はありますが、シンプルです。
時間や水を、シンプルに提出しています。
それ故に、見る人の想像力を拡げ、遠くの方まで連れ出してくれます。
そこで見える景色は、日常でありながら、日常を超えた原初の眺めです。

ご高覧よろしくお願いいたします。


会期

2006年11月27日(月)-12月2日(土)

11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)


会場案内